粥日記

A fehér liliomnak is lehet fekete az árnyéka.

死にたいという気持ちが私を突き落とそうと迫ってきて、いよいよ駄目かもしれない。
そういう段階になると、ふと母と妹のことを想像してしまう。

 

もし私が死んでしまったら、私の仕事先や友人への報告をきっと母が担うことになるだろう。

私が死んだということが悲しいのに、それを何度も何度も、口頭で、手書きで、メールで、各所に伝えなければいけない母の様子が浮かんでくる。そんな母を支えようとして、でも初めてのことで何をしたらいいかわからない妹が潰れてしまうかもしれない。

支えあうふたりの様子が現実のように想像できてしまい、そんなときはそこが電車だろうが職場だろうが往来だろうがお構いなしに涙が出てくる。踏ん張るようなスペースもないのに、「死にたい」をなんとか押し返す。

 

そうして息切れしていると、すでに自死してしまった人や私がいないと嬉しい人たちが頭の中で私を責めはじめる。私は、自分が言った「死にたい」ということも成せない嘘吐き女なのだという。そうなのかもしれない。ごめんなさい、という気持ちになる。

彼らに向かってごめんなさいと謝罪すると、どういうわけか彼らは怯む。その隙に、小走りになって自分の家に逃げ帰る。

 

好きなアイドルのコンサート日程や、好きな俳優の出演予定作品が発表されると、つい手癖のようにSNSに「それまでは生きる」と書いてしまう。けれど、それを書き込んでいる自分の心はしんと冷たく落ち着いている。

本当は、死と比較するならば、別にコンサートも作品も見られなくていい。私が見なくても、アイドルの笑顔は輝くし俳優は素晴らしい演技をするとわかっている。これを信頼なのではと思っているのだけど、違うだろうか。推しの引退発表をきっかけに、徐々にこう考えるようになった。

 

やはり、私を死にたいに押し負けないようにしてくれるのは、想像上の悲しそうな母と妹の姿だけだ。他のことは、私がいてもいなくても何とかなる。なってしまう。ああ、やっぱりこれは信頼ではなく、諦念かもしれない。

 

あまり死にたいと思わなくなってきてから、まだ2週間ほどだ。だからといって毎日テンション高く生きているかというとそういうことはなく、ときどき夜には「ヤバい、死にたいが来た」と思って慌てて布団を被る。

自分の身体に対しても生活に対しても投げやりで、行き当たりばったりな身体管理や生活を見ていると、自分を大切にしようと思えるところまで回復しなければと焦る。回復のためのお暇は、誰かが与えてくれるわけじゃない。

 

「感覚としては、すごくゆっくり一歩進んでは転がり落ちるように三歩戻ってる感じ」と話したら、知人がいまの私のどうしようもなさを笑ってくれたので、少しほっとした。