粥日記

A fehér liliomnak is lehet fekete az árnyéka.

夜中にガトーショコラを焼く

休職期間がはじまって1ヶ月とすこし。新型コロナウイルスの不安もあって地元に帰りづらく、ほとんどの時間を自分の家で過ごしている。

7月中と比べて変わったのは、本を読めるようになったこと。映画を見られるようになったこと。散歩が習慣になったこと。お風呂に毎日入れるようになったこと。1日2食以上ご飯を食べられるようになったこと。短歌を詠んでみたこと。

変わらないのは、家族や恋人以外の人に会うのが億劫なこと。運動するほどの元気はまだないこと。パンを作れないこと。忘れっぽいこと。言葉が思うように出てこないこと。近い未来のことすら、考えると軽いパニックになってしまうこと。

 

かかりつけのお医者さんをはじめ、周りの人が「してほしいことがあればサポートする」と繰り返し繰り返し私に話してくれている。人になにかお願いするのが苦手ではあるけれど、それを理解して繰り返し言ってくれているとわかる。ありがたいことだし、私ももうすこし思い切った寄りかかりかたをしても良いのではないか、と機会をうかがっているところ。

1~2ヶ月先のために、こんなことをする必要があるのではないか、と頭の中でリストアップしはじめている。でも、仕事のこと、お金のこと、生き方のこと、自分が何をどうしたいのかと考えるようになって、抜毛癖が出てきた。7月中、先のことを考える力など一切なかったときは、癖が出なかったのに。ストレスなんだな、と思うし、ストレスなんだねえ、と自分の中にいる自分に話しかけるような気持ち。結ぶほど長くない髪を無理やり引っ張って結んで、抜毛しないようにできるだけ努力している。

 

四六時中「死にたい」とか「死ななければいけない」と思うことがなくなったのはとても楽だ。数日おきくらいに減った。「死ななければいけない」と義務のように強迫的に感じることは、もうほぼない。毎日、ぼーっとしていると車道や線路に無意識に飛び出してしまいそうになっていたときは、ただただ怖かったな。

キリスト教では、誘惑やつらいことは「試練」として神様が与えてくれたものと考えたりする。私は、つらいことがあると神様よりも、なんとなくおばあちゃんの存在を感じる。つらいことがたくさんあった中で亡くなったおばあちゃんが、自分のつらさを私にわかってもらいたいんじゃないかなと、それがまるで正解のように確信的に感じる。そういうとき、心の中や声でおばあちゃんを呼びながら泣いて、泣いて泣きつかれて寝てしまう。

なんだかおばあちゃんも、私に幸せになってほしい気持ちと過去のつらさを理解してほしい気持ちで、すごく揺れている感じがするんだ。そういうあらかじめ引き裂かれている感情、私よくわかるよ。私も自分の感情が両極端な場所に置かれてしまって、振れ幅に酔って気持ち悪くて吐きそうになるときがよくあるもの。

いや、全部私の妄想かもしれないけれど……。

 

はやく社会復帰したい気持ちと、そんなこと私にできるの? という疑いの目線で、いまは揺れている。「そんなことできるの?」と言ってくるのは私自身だけではなく、これまでの人生で私を侮ってきた人たちが口々にそう問いかけてくる。時には、どうせできないと自信たっぷりの目を私に向けながら。動くと彼らに引きずり落とされそうで、怖くて怖くて、いまはまだじっとしている。

明日はまた、本を読めますように。映画もすこし見られますように。文章を書くとか料理とかもできたらいいけど、何にもできなくたって悪くないんだよ。長い人生の数ヶ月のこと。いつか忘れてしまうかもしれないんだし、気にしないで。

だけど、でも、やっぱり、何かを見たり読んだり、生産したりできると嬉しい気持ちになるなあ。そんなささやかなことを、ささやかに感じている。今日も布団の中で。

 

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夜中に焼いたガトーショコラ。冷めると中心からへこんでいく。その様子が可愛い。可愛いと思えるようになって嬉しい。