粥日記

A fehér liliomnak is lehet fekete az árnyéka.

【5/25~5/31】幸せがわからなくても許されたい

5月25日(月)

起き上がれない。何もできない。いったい何時間寝ていたんだろう。やってもいないことを疑われ、家に警察が乗り込んでくる夢を見た。警察が私の腕を掴む力が強くて怖かった。
夜になってようやくLINEやTwitterを見られた。縦になるとつらくて、座ってすらいられなくてずっと横になっている。

 

緊急事態宣言が解除されるというニュースとともに、以前遊んだことのある男の子たちからドドッと連絡があった。若い子たちは素直。それなりに立派な企業に勤めている偉いおじさんたちは、まだ様子を見ているようだ。もし罹患したとき、私のような馬の骨と会っていたことなんか会社にバレたくないもんな。私はというと、いまは彼らにそれほど会いたいと思えず返事をするのも億劫。

陳腐で月並みな自分を、自分で暴いていく。気持ち悪い虫が出てくるであろうことをわかっていながら、石をひっくり返すのをやめられない。普通の人みたいな顔をした、何者でもない気持ち悪い私をちゃんと知ってあげたい。

気持ち悪い私を知って、その気持ち悪い私を携えて、そんな私でも好きだと言ってくれる人の側にいさせてもらいたい。私が病気になってしまうほど自分を見つめすぎるのは、そんな誰かを見つけ出したいから。そんな気がする。

5月26日(火)

あまり人に言うべきことではないが……、午後に、土曜日ぶりにシャワーを浴びた。日曜も月曜も今日の午前中もずっと起き上がれなくて、ご飯もほとんど食べていない。セルフネグレクトというやつなのかもしれない。お茶やポカリを飲もう(飲んだほうがいいだろう)という気持ちだけはあってそのようにした。万が一コロナにかかったときのために少しだけ用意していたポカリやゼリー飲料類がほとんどなくなってしまった。買いに行かないとね。

 

近江瞬『飛び散れ、水たち』(左右社)をようやく読む。

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火傷あと気持ち悪いって言いながら触りたそうなときの顔だね(p.82)

誘われて断った日の翌朝の卵黄あてつけのように膨らむ(p.109)

泣かないで君が願えば人生はよろこびが多めのわんこそば(p.116)

塩害で咲かない土地に無差別な支援が植えて枯らした花々(p.120)

被災地視察に新大臣が訪れる秘書の持つ傘で濡れることなく(p.128)

きっと今から悲しいシーンに切り替わる涙の雨と書けば簡単(p.130)

 

これはと思った歌を5つだけ紹介しようと思ったけど、5つに絞れなかった。もう5つくらい紹介したい歌があったので、買って読んでほしいです。

飛び散れ、水たち

飛び散れ、水たち

  • 作者:近江瞬
  • 発売日: 2020/05/11
  • メディア: 単行本
 

 

まだご飯が食べられず、どうしたものかと思っている。明日は仕事ができるのだろうか。このままずっとこの調子だったらどうしよう。

少し前は、「死にたいと思ったときに衝動的に飛び降りないでいられるから低層階に住んでいて良かった」と思っていた。でも今日は、「どうせなら高い階に住んでいれば良かったんだ」と思っている。そうすれば、きっともっと何年も早く飛び降りていただろう。死んでいたかもしれない。死んでいたら、いまこうやって悩んでいることや苦しんでいることに出会わなくて済んだ。

だけど死んでいたら、「えりかが死んだら俺が悲しい」という言葉が準備されていたその場しのぎの台詞じゃないと信じられる相手に会えることもなかった。

5月27日(水)

鬱になってつらいことの一つが、「○日までにできます」「○時までに送ります」という約束が全然守れないことだ。鬱でも守れている人はいるのかもしれないけど、私は仕事でもそうじゃないことでも守れなくなってしまった。忘れるし、自分が何をしていたのか急にわからなくなるし、急に動けなくなってしまうし、全然予定通りに身体が動いてくれない。今日も、会社に行く準備に半日かかってしまって、準備ができたと思ったら腹痛で足止めされて。この先どうやって生きていくつもりなんだろうと愕然とした。

 

行き帰りの電車では、鈴掛真『愛を歌え』(青土社)を読んでいた。正直、短歌を読むのも大変だ。短い文章でも、何が書いてあるのか理解するのにとても時間がかかる。それでも、頑張って読みたいなと思わせてくれる本だった。

愛を歌え

愛を歌え

  • 作者:鈴掛真
  • 発売日: 2019/07/23
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

この駅で降りるのはもう最後だとGoogleマップから消える星(p.22)

王子様がいつか迎えに来るまでのそばで見守る小人のひとり(p.64)

脚本に書かれていないアドリブのようにあなたの連絡は来る(p.76)

コンタクトレンズ外せば君じゃない人に抱かれているかのように(p.99)

何度でもやり直せるから将来の夢はノートにシャーペンで書け(p.117)

星印 君と出掛けたときにだけ付けて手帳に生まれた宇宙()

 可愛らしい、少年みたいな歌たちだなと思ったら、年上のお兄さんでした。びっくり。

 

病院の先生は、3月の時点で「治したいならすぐに休職してください」と言っていた。なのに、見た目には普通だし騙し騙しなら何とかなるのではないかと思って働き続けて、周りにとんでもなく迷惑をかけている。ぐったりしている自分の首根っこを掴んで、彼女を罵りながら働かせよう、まともに生活させようと語気を荒らげている自分が見える。「なんでこんなこともできないの」と言う自分は、ドラマか何か創作で見た悪い母親みたい。いまはできないんだよ、わかってあげて。

今日もまた、ご飯を食べられていない。夜中にちょっとしたものをつまむだけ。それでも生きている。しぶとい身体め。

5月28日(木)

あまり覚えていない日。

5月29日(金)

普段記事書くとき、原稿になるワードやグーグルドキュメントに構成をざっくり直接入力してそれに肉をつけていくやり方で書いているのだけど、なんか久々にノートにペンで構成を書いてみたらなぜか「やった感」だけ醸成されてしまって、原稿に起こす前にやりきった気持ちになってる。だから直接入力の方法にしたんだったかもしれない。なにこの現象、ただの癖なのかな。

 

今日は、いつもよりも周囲の出す声や音が気になる日だ。誰かが誰かに叱られている声と空気がつらくて、フロアにいられず別の階に逃げ出した。帰りたい……。こんなことが気になってしまう自分が嫌だ。みんな、何か上手い方法で聞き流しているはずだ。どうして私は手が震えてしまうの。涙が出そうになってしまうの。急に大声を出しそうになってしまうの。

やることはたくさんあるのに、何もできない自分がつらい(本当に「何も」できていないわけじゃないのに)(できていることが認識できない)。

5月30日(土)

「幸せ」について、主体的に自らアクセスしに行ける人と、渇望の度合いに差はあれどただ供給されるのを待つ人がいる。私はおそらく後者寄りの人間だ。

どうしてそうなったのか考えた。思い当たるのが、こどもの頃に大人に強く言われた記憶がある「調子に乗るな」という言葉だった。思い返してみても、何かトラブルを起こすほど調子に乗っていたことはなかったと思う。ただ、私に嬉しいことがあったタイミングで周りの大人にネガティブなことが起こった。それを察せずに「嬉しいことがあった」と報告した私に、その大人は苛立ったのだろう。

その刷り込みのために、周りの状況を考えずに喜びを表現することそのものが、私にとっては「調子に乗っている」ように感じられる。10代になると、今度は「どうしてそんなに嬉しそうにできないの」とよく叱られたり、呆れられたりした。斜に構えてたわけじゃない。調子に乗らないように、静かに静かに気をつけていたの。

 

カントリー・ガールズの『ピーナッツバタージェリーラブ』という曲に「おいしい時は おいしいって 口にしていいんだと 教えてくれた人」という歌詞がある。おいしいときにおいしい顔ができない、嬉しいときに嬉しい顔ができない私は、この歌を初めて聴いたとき泣いてしまった。


カントリー・ガールズ『ピーナッツバタージェリーラブ』(Country Girls[Peanut Butter Jelly Love]) (Promotion Edit)

 

別に、私はただ幸せを口を開けて待っている馬鹿なわけじゃない。私が幸せを感じることが「調子に乗っている」と、悪いことだと刷り込まれているだけ。「幸せになって」なんて言わないで。大人に怒られたくない私と、幸せを祈ってくれる人のためにも幸せになりたい私で、私が引き裂かれてしまう。

ずっと、いつも自分の中に2つの相反する感情が湧き出るのが不思議だった。でも、きっとその根源にはこのことがあったんだと思う。幸せになって調子に乗ってると思われてみんなに嫌われたくない。でも、私を大切に思ってくれている家族や友達に幸せな姿を見せてあげたい。こんな選択がいつも繰り返されて、考えれば考えるほど「幸せを選ばない」を選んでしまう。叱られたり嫌われたりする恐怖には勝てない。

「ときどき、思い切りの良い突飛な行動をするよね」と言われることもある。それはきっと、その恐怖を感じる前に体を動かしてしまったり、恐怖を振り払おうとしたときなんじゃないかな。

 

いつもいつも、2つの自分が牽制し合っている。だから幸せにアクセスしに行く瞬発力がない。こんなに幸せなのに、「これを『幸せ』と感じていいのか」ともう片方の魂が心配そうに問いかけてくる。誰も悪くない、どちらも私の可愛くてかわいそうな私たち。

「ご自愛」だとか「自分で自分の機嫌を取る」だとか、そんなのがうるさくて気持ち悪くて堪らない。自分から幸せにアクセスできない私は、神様が与えてくれたようなわけのわからない幸福に震えて泣いている。自分ではコントロールできない奇跡のような幸せだから、濃く深く大切にしたいし、どうせ無くなるものだからいまはただ溺れていたい。罪悪感で自らこの手を振り払ってしまうまでは。

5月31日(日)

病院で寝るための薬を出してもらっているのだけど、どうしても3時間で目が覚めてしまう。眠れなかったらどうしよう会社に行けなかったら、原稿が書けなかったら、それだけじゃない色んなことが急にものすごく不安になり、寝るためだと信じ込んでしてはいけないであろう薬の飲み方をした。嘔吐、嘔吐、嘔吐。呼吸困難になり、病院に運ばれる。死ぬつもりじゃなかった。でも、救急隊員の人が私に「こんな風に死のうとしてもだめですよ」と小さな声で言った。私は「はい」とか「そうですね」とか返事したつもりだったけど、その声が出ていたかどうかわからない。

 

***過去

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