粥日記

A fehér liliomnak is lehet fekete az árnyéka.

【4/13~4/19】幸せがわからなくても許されたい

4月13日(月)

会社の自分の席に座ると、髪の毛を抜いてしまう。こどもの頃から抜毛の癖があり、ストレスがかかると髪の毛を抜いてしまうようなのだ。それと、集中しかけているときにも。会社だけでなく、家でも例えば原稿が思うように書き出せなかったりすると少し抜いてしまうこともある。でも、会社だと席に座るだけで1日中抜いてしまう。

周りの人にとっては気持ち悪いだろうと思うので治したいが、毛量が多いせいでハゲるなどの実害が起きることがない。抜毛症を治した人の体験談などを読むと「ハゲたこと」が「治す」という強い決意のきっかけになっていることが多いように感じる。私にもいつかそのきっかけが来るかと思っていたが、来ない。

じっと座っていることや、集中しているときに名前を呼ばれたり電話に出ないといけなかったりすること、周囲の些細な身体の動きや呼吸や衣擦れの音や溜め息に敏感に反応してしまうこと、何か悪く思われているのではないかという妄想、「それ差別・加害ですよ」と注意したくなるような差別ジョークに二次加害ジョークを聞き流すこと。

もっと色んなことをシャットアウトできるようになりたい。でも、小さなことに気づけるようでもありたい。難しいことを自分に要求している。

4月14日(火)

昼休みに書店に寄って新刊の棚を眺めていると、少し奥から「明日から休業です! 明日から休業です!」と声が聞こえてきた。その声に煽られて、買う予定でなかった本を5冊買ってしまった。本は買占めしてもいいって、Twitterで見た。

じっと手を見る (幻冬舎文庫)

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与田祐希2nd写真集 無口な時間

与田祐希2nd写真集 無口な時間

  • 発売日: 2020/03/09
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 
感染症の世界史 (角川ソフィア文庫)

感染症の世界史 (角川ソフィア文庫)

  • 作者:石 弘之
  • 発売日: 2018/01/25
  • メディア: 文庫
 
ペスト(新潮文庫)

ペスト(新潮文庫)

 

与田祐希さんのことは正直よく知らないのだけど、以前から「いつか向き合わなければいけない人」という気がしていて、このタイミングで買った。レビューが書けるといいな。

書店の地下の飲食店でご飯を食べていると、店主らしき人に「明日からしばらくお休みなんです」と声をかけられた。私がまた来てしまってがっかりしないようにだと思う。優しい。そして、さみしい。

店主のところには、いま休みになっているのであろうアルバイトの男の子たちや、書店のエレベーターガールなどが集まってきては名残惜しそうに挨拶をして去っていった。アルバイトの男の子は、調べてきたのか中小企業の国の補償の受け方や、生活が困ったときの連絡先などを丁寧に店主に話していた。そんなにいっぱい口頭で、きっと店主覚えられないよ。けれど、自分が何もできないとき、せめてもの思いで一生懸命に調べたことを大切な人に漏れなく伝えたいという善意と若いエネルギーが羨ましくもあった。

午後には、上司と二人で話した。話したというか、上司が私に色んなことを話してくれた。

「失敗したりくじけたりしている自分を『可愛い』と思わないと」
「素直で真面目で丁寧で繊細なことは、万人の標準装備ではなくあなたの特別な能力」
「仕事は覚えればいいけど、素直さや真面目さ、丁寧さは持てない人は永遠に持てないから」
「人生は長いから、こういうときもある」
「時間が解決しないことはない」

他にも色々、たくさん。自分なんかに時間を取ってもらって申し訳ない気持ちで聞いていたけれど、でも上司が私に思っていることをたくさん伝えようとしてくれていることは嬉しくて堪らなかった。私に何かを伝えようと、上司の固そうに皮膚が張った指が揺れ、着ているトレーナーの皺の位置が入れ替わっていくのを見ていた。誤解を与えない慎重さと、誤解を恐れず自分の言葉を投げ続ける豪快さ。

私は、本当は入社したときから上司のことが大好きで(恋愛とかそういうのではなく)、他の人が上司の愚痴を言っているのが嫌だったし、上司が私と二人でいてくれるのが特別に嬉しい。上司の置かれた状況や会社の雰囲気が、私が幼い頃の父の姿を思わせるからかな、と今日思った。

どうなるかわからないが、休職はまだ少し先になりそうである。

4月15日(水)

父に寄り添って寝たいな、と思いながら起きた。物心ついて以降はそんなことしたことがないし、たぶん兄弟の中で私が一番父を避けて生きてきたのだけど、そう思った。

温泉とか韓国とかに父と二人で旅行に行って、夜、父が寝入った頃に布団にもぐりこんで、腕に絡まって肩に自分の頬をつける。それは何となく本当に自分がやりたいことという気がした。そして、それはこの数年間色んな年上の男性たちに会ってやってきたことでもあった。私は、ありきたりすぎて恥ずかしいくらいだが、父の代替品としておじさんたちと寝てきたのかもしれない。

「代替品」というのは、ちょっと違うか。体感を確かめるための「試供品」というほうが近い気がする。男性の、物扱い。

これまでに、男たちが悪びれもせず女に対してやっていることを自分もやってみたくて、女性とセックスをしたり、ずいぶん歳の離れた若い男と寝たり、社会人なのに学生と寝てみたり、お金を払って男性から性的サービスを受けてみたり、自分を好きになった男を捨ててみたり、男を追い詰めたりしてみた。

それでもやっぱり私は女なので、行動としては同じでも効果としては上手く鏡写しにはならなかった。また、自分の性質上「年上だから」とか「金を払っているのはこっちだから」という理由で酷いことはどうしてもできなかった。搾取し切れなかったり、こちらも何かを奪われたりした。
そういう性別なのだ、私は、と思い知る。それがそうならば思い知る体験をしたかったので、それでいい。

何もしないで諦めるよりも、行動し、打ちのめされて思い知り、底の底に手をついて絶望してから腑に落ちる方法が、頑固な自分には合っている。だから、絶対にやめたほうがいい人とも結婚してみた。危ない人にもついていったし、危ない目に遭う仕事もした。何かを得るなら、削ぎ落とした自分の魂と引き換えじゃないと納得できない。

こんな自分のまま、この先も生きていけるのだろうか。負った傷が数日で癒えるほどの若さは過ぎつつあるのに。

1日中お腹が痛かったが、校了日だったので気持ちは少し開放的になれた。もうずっと、何週間もお腹が痛い。

4月16日(木)

編集を担当している書籍、とても美しいカバーデザインをしていただいた。ものすごく感謝している。全然伝えられていない気がして、ちゃんと感動と感謝を伝えたいという気持ちが強まる。
カバーデザインについては、上司も「自分だったらこうはできない。あなたのディレクションが良かったのだ」と言ってくれたけど、私はデザイナーさんのおかげだと思う。本当にありがたい。ありがたい以外のなにものでもない。

帰宅の電車では、みんな隣の席を1つか2つ空けて座っていて、途中で乗り込んできた人も多くはその空いた席には座らず、立って乗っていた。アナウンスがあるわけではない。この数週間で、自然発生的に電車の乗り方に新しいマナーができ、多くの人がそれに従っている。
私も自然とそのマナーを守っていて、たまに隣に人が座ってくると「え!?」と驚いてしまう。少し前まではそんなことなかったのに。いつの間にか違う世界に来てしまったみたい。

向かい側の席には人が座っていなかった。姿勢を正して顔をあげると、夜になった町が見える電車の窓に、自分の姿が映っている。ふとしたときに見える自分の姿は、自分ではないようで、本当に自分がここにいるのかどうか不安になってくる。今日、こんな服着てたっけ、私ってこんな目だっけ、髪型はこんなだったかな、本当に? なぜマスクをつけているの? 変じゃない? こんな格好でここにいるの、変じゃない? 大丈夫なの?

窓の自分を凝視していると、窓の自分の隣に座っていたおじさんが、私の形相に気づいて訝しむような顔をした。訝しまれるような、奇妙な自分がここにいる。おじさんを嫌な気持ちにさせたかもしれないことを申し訳ないと思いつつ、自分がいたことへの微かな安心感を得た。

最寄りのスーパーでは、友達が教えてくれた春ぽてとのあま旨塩味を買った。久しぶりに買うポテトチップス。確かにあま旨塩だな、というまあるい塩味でおいしかった。

4月17日(金)

前から話してみたいと思っていた人と、初めて電話をした。初めてだったのに、不思議と長い時間話せて合間の沈黙も気にならず、嬉しかった。

今週は、あまり「死にたい」とまでは思っていないかもしれない。時々思うけど、取りつかれたように「死にたい」で頭がいっぱいになってしまうことがない。これが普通なのか躁っぽい状態なのか、わからない。死にたいと思わなくていいのか? と不安も感じる。死にたいと思う自分の方が、自分の中でスタンダードになっている。

そういえば、私は「面白い」という言葉を「재미있다」「흥미 있다」みたいな感覚で使うけれど、Twitterなどでは「웃긴다」に近いニュアンスでとらえられることが多く、ちょっと困っている。『ガリレオ』シリーズの湯川学(福山雅治)の「実に面白い」が近いんだけど。

私が「面白い人」というとき、それは「笑える人」ではなく「興味深い人」のほうが近い。でも、「興味深い」だとちょっと堅い感じがする。ちょうどいい言葉があるといいのに。それが「재미있다」なんだけど。

4月18日(土)

歯医者に行く予定だったが、コロナウイルスのこともあり行くべきか行かないべきか迷って、結局行けなかった。迷っているうちに時間が来てしまった。心療内科、皮膚科、歯科、今週はどれも行っていいのかダメなのかわからず全部行けなかった。薬がなくなってしまうものもあり、とてもとても不安。そして申し訳ない。

本当は、4月中に健康診断の再検査にも行かなければいけない。でも、行けない気がする。来月になったら行けるだろうか。

先のことを考えるのが怖くなって、心療内科の先生が言ってくれていたようにとにかく眠った。眠るのは自分を守るためだから罪悪感を抱かなくてもいいと先生は言っていたけれど、罪悪感を抱かずに眠った私を誰かが責めている気がする。起きたとき、のた打ち回ったかのように布団が乱れていて、私は汗をかき息が切れていた。自分がつらそうで悲しい。

『ドラマ大学』開講記念Zoomイベント」に出演する予定があり、夜にバタバタと化粧をした。私は何を気にしているのか、Zoomで話すのは結構疲れる。Zoom飲み会とかを楽しんでいる人たちすごいな……と思いながら、終わった後にひたすら頬を揉みほぐした。にこにことしようと努めていたためか、引きつるくらいに頬が痛かった。

4月19日(日)

誰だかよくわからない怖くて大きい男の概念みたいな男に、無理矢理性的な行為をされる夢を見た。夢の中の私は髪が長く、男は私の髪を掴んで自分のほうに引き寄せた。もしかしたら、過去にそういう行為をしてきた男性に昨日名前を呼ばれたから、こんな夢を見たのかもしれない。行為中、その男性に髪を掴まれたとき、私の髪はまだ長かった。あれから髪の毛を伸ばせない。

死にたいが、あの人のためには死なない。絶対に復讐してやる。という思いで起き上がり、復讐とは関係ない気持ちでスコーンを焼いた。昨日から焼こうと思っていて、ベーキングパウダーを買っていたのだ。最近休業しているスターバックスのスコーンみたいなのが食べたくて、チョコレートも砕いて混ぜた。きれいな三角形に整える気力までは持てず、生地は曖昧に6分割された。

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朝ごはんに2つ、知人友人とのオンライン読書会の合間に1つ食べる。ざっくりと作った割に、軽い食べ心地で甘すぎずバランス良くおいしい。

昨日のZoom座談会でとても疲れてしまったので不安だったが、Zoomでのオンライン読書会は全然疲れなかった。見知った同士、画面の向こうでも自由にしてくれているし、私も結構自由に過ごせたからかもしれない。お手洗いに行きたいときはそう言えたし、少し気分が悪くなった人は画面から外れて横になっていたし、急にコンビニに行くと言っていなくなってしまった子もいた。自由。

私はオンラインテレビ通話が苦手なのではなく、自分の部屋にいるのに自由にできない状況に混乱していただけなのかもしれない。そういう環境の違和感とか整合性のなさみたいなものに、きっととても弱い。

自分は何も信用できないような気持ちでいたけれど、それは違っていて、私は何もかもを素直に信じてしまいすぎる。それは直さなければいけないことなのだろうか。

死にたいけどトッポッキは食べたい

死にたいけどトッポッキは食べたい

  • 作者:ペク・セヒ
  • 発売日: 2020/01/21
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

読書会では、ペク・セヒ『死にたいけどトッポッキは食べたい』(光文社)を読み終えた。鬱病と不安障害に悩み病院を転々としてきた著者が、2017年に通い始めた病院の医師とのやり取りをエッセイとして書いた本。山口ミルさんの翻訳は、韓国語話者の言葉選びの特徴や雰囲気が感じ取れるような、それでいて日本語としても読みやすいバランスで、頭の中に韓国語と日本語がそれぞれに流れ込んできて心地良かった。

 先生はなんらかの方法や答えを提示できずに申し訳ないと言った。でも、例えば真っ暗な井戸の中に落ちた時、壁を触りながら一周回って初めてそれが井戸だとわかるように、失敗をすることで間違いなくその繰り返しを減らせると言われた。失敗の積み重ねがしっかりとした自分の芯を作ってくれるはずだと、私はよく頑張っていると。コインの裏側を見ることができる人なのに、今はそのコイン自体をあまりにも重く感じているだけだと言われた。

(ペク・セヒ『死にたいけどトッポッキは食べたい』光文社 p.156)

著者は「実感」したい人なのではないかと思ったのは、私もそういうタイプの人間で、本の内容に共鳴したからだった。医師から「答え」らしきものを聞いたり、本でインスタントに「答え」をインプットしても、納得ができない。井戸に落ちて暗闇の中で壁に触れたり、海の底の底に沈んでしまってどんなに息が苦しくても海底に触れてどん底を味わったりして「実感」を得ないと、生きていかれない。

それはまったく効率的ではない。だから、馬鹿にされているとか、置き去りにされているとか感じることの多い人生。でも、そんな人生を歩まざるを得ない性質を持って生まれた自分に「そうなんだね」と言ってあげながら生きていくしかない。

自分をないがしろにすれば、世の中の効率的なスピードについていくことはできる。それくらいの能力は持っている。でも、それは精神的にも物理的にも自分を殺す日を早めることだ。

フェミニズムを応援して、人種差別反対を叫びながらも、中国人を見れば身をすくめたり、美しくないレズビアンを見れば不快だという「体の反応」を起こしてしまう私。なんてつまらない、矛盾した存在。
 でも、こんな自分を自虐したり嫌悪したところで何も変わらないのはわかっている。自分が未熟な人間であることを認めて、瞬間ごとにやってくる反省と考察の機会、知らなかったことを知った時の恥ずかしさと喜びとを感じながら、1ミリの変化を期待するしか。

(ペク・セヒ『死にたいけどトッポッキは食べたい』光文社 p.169-170)

また、エッセイ本文とは別に巻末に載っていた散文の、この文章も好きだった。Twitterでは、足場の悪い道を歩くフェミニストが少しでも足を踏み外すのを、今か今かと涎を垂らして待っているようなユーザーを目にすることがある。彼らは、フェミニストに「完璧な聖人」であることを勝手に課し、少しでも外れれば待っていましたとばかりに嘲笑する。

フェミニストを自認する人の中には、彼らの嘲笑を避けるため、あるいは他のフェミニストに迷惑をかけないために、自らを律しすぎたり言動を反省できなくなってしまう、毒にやられてしまった人もいる。私は、そういう状況を見ているのがつらい。

著者は、自分が矛盾した存在であることを恥じ、そのうえで静かに飲み込もうと努める。誠実な態度とは、これだと私は思う。嘲笑を目的とした人々は、「中国人を見れば身をすくめたり、美しくないレズビアンを見れば不快だという「体の反応」を起こしてしまう私」という一文だけを取り上げて笑うかもしれない。でも、誠実さとは、自分の倫理観と生理的反応の矛盾に気づき、折り合いのつけ方(それは言い訳ではなく)を探し続けること。そんな静かな挑戦を続けていける人を、誠実と言わず何というのか。

 そんな思い出を振り返りながら、ふと「あの人は変わってしまった」というのはいらない言葉なのかもしれないと思った。一貫した人であるとか、あるいはそうあってほしいと願うことは、人によっては残酷なことなのかもしれない。

(ペク・セヒ『死にたいけどトッポッキは食べたい』光文社 p.184)

私も、他者に一貫性を求めてしまう自分を、気づいたときに律し続けている。一貫性のある人には安心を感じる。でも、人間は本来一貫性を持つものではないと、私は学ばなければいけない。

人は、自分の公表していた信条と違う意見に共感することだってあるし、そもそも自分が言ったことを忘れてしまうことだってある。倫理観と生理的反応だって、自分が「一貫している」と思い込んでいたり無意識に矯正していたりするだけで、本当は乖離しているのかもしれない。自分が思い込んでいる自分は、確かにいる。

著者や私が何を学んでいこうとしているのか、何を言っているのか、感覚としてわからない人もきっといるだろう。ただ私は、自分が惹かれる隣の国に、自分と似たつらさを抱えながら、それを抱きしめてみようと試みている人がいることが、嬉しかった。

 

***過去

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