静かなお粥のほとりから

A fehér liliomnak is lehet fekete az árnyéka.

東京で暮らしていく

宮城に帰ることが叶わずさみしくて堪らない年末年始を、恋人が一緒に過ごしてくれた。ひとのほとんどいない深夜にドライブに連れて行ってくれ、誰も歩いていない東京駅やお台場や銀座を車中から見てまわった。灯りも少なくひともいない街を眺めていると、なんだか「この夜は、時間は、わたしのもの」という気持ちになるから可笑しい。

東京のどの街にも、嫌な思い出がこびりついている。元夫の存在に怯えながら暮らしたマンション、無理やり車に乗せられそうになった繁華街、タクシーの運転手に連れまわされた道、馬鹿にされてもヘラヘラと笑っていた店、無邪気に追い出されたコミュニティー、嫌がっても嫌がっても拒否しきれなかったホテル。もっともっとたくさんの嫌な思い出が東京にはありすぎて、ときどき、わたしは自分を苦しめるためにここに住んでいるのだろうか、と考える。

 

「そういえば、何年か前は目黒に住んでいたんだよね」

と言うと、運転席の恋人は、なんて贅沢なんだと言ってそれを茶化した。弁解のために、元夫と暮らしていたときの家賃補助の関係で……目黒は中目黒とは違って……などと説明をしたが、そんな弁解に意味はなかったかもしれない。

話しているうちに、目黒の賃貸マンションでの暮らしが断片的に思い出されていく。2DKの部屋だった。日当たりの良い部屋をふたりの寝室にしたかったけれど、わたしの荷物が運ばれる前に元夫の荷物がその部屋に入っていて、そのまま彼の仕事部屋になり、わたしはその部屋に入ることを禁止された。

広告代理店で働きながらフリーライター業をしていて、わたしは朝5時近くまでパソコンに向かっていることが多かった。が、彼と違って自分の仕事部屋がないので、ダイニングで仕事をすることになる。わたしが朝まで働いていることや、ダイニングのソファで寝落ちて1~2時間の睡眠でまた出勤していくことを、彼は目障りに感じているようだった。彼の無言の苛立ちが、底冷えする部屋をさらに冷たく感じさせていた。

「あるとき、彼の女性関係のことで揉めて家に居づらくなって、近所のモスバーガーで時間をつぶして、モスバーガーが閉まっちゃうから今度は牛丼屋さんに行って。深夜に彼の部屋の電気が消えているのを確認して、こっそり帰ったことがあったなあ。自分の家なのに、気づかれないように、嫌な思いをさせないように、静かに帰らないといけなくて、なんでそのときに『おかしい』と思えなかったのかって、いまは思うよ」

恋人は、元夫の話を嫌な顔をせずに聞いてくれる。本当は嫌なのかもしれないし、嫌という気持ちに気づいていないだけかもしれないから、わたしが自重するべきなのだけど、このときはなぜかつるつると記憶が蘇ってきたので、つい話し過ぎてしまった。

「住所を覚えている?」と恋人は言った。通販か何かのメールに残っていた住所を読み上げると、恋人はナビにその場所を覚えさせ、車を発進させる。住んでいた家を見てみようという。

「もし具合が悪くなったり嫌だと感じたりしたら、行くのをやめるから言って」

嫌か嫌じゃないかと言われれば、嫌だった。けれど、わたしはそれを伝えなかった。行ってみて自分がどうなってしまうのか、知りたい気がしていた。

数年ぶりに見る建物。わたしが住んでいた頃に茂っていた草木がきれいに剪定され、当時のままではないからか、新しく見る建物のような感覚もあった。さすがに建物のなかまでは入らず、ただ下からぼうっと数分それを眺めていた。寝ているのか帰省などしているのか、どの部屋の電気もついておらずしんとしている。暗い窓にレースカーテンのたわみが見えて、ひとが住んでいる気配をかすかに醸していた。

引っ越してから一度もひとりで来られなかった目黒。当時を思い出してしまうのが怖かったのだと、改めて気づく。でも、もうこの窓の奥には怖いものはない。別の誰かが新しいカーテンをかけて、わたしたちとはまったく違う生活をしている。怖いものは、もうここにはないよ。ひとつだけ大きく深呼吸をして、「帰ろうか」と、ただ寄り添ってくれていた恋人に言った。

 

「そうだ。この近所においしいラーメン屋さんがあって、ワンタンメンがおいしくて大好きなのに、ずっと来たくても来れなかったんだけど。でも今度は、ひとりでも来られそうな気がする」

車に乗り込んでシートベルトを引き出しながらわたしが言うと、恋人は「なんでひとりでなんて言うの」と怒ったポーズをして見せた。

「じゃあ、一緒に行くかい。また連れてきてくれる?」
「もちろん、いいよ」

少しだけ眠さを感じはじめていたわたしたちは、まだ暗く冷えて澄んだ空気のなか、おうちのあたたかい布団に向かって車を走らせた。

 

東京には、嫌な思い出がたくさんある。傷つけられたこと、悔しい思いをしたこと、屈辱、絶望、憎悪が、さまざまな街に古い油汚れのようにこびりついて臭っている。「あなたはあなたが思うよりずっと東京を生きるのに向いているよ」と言われたり、それでも来たくて来たんじゃないといじけたり、ここで生きていく覚悟をしなければと気負ったり、わたしにはまだ東京との向き合い方がわからない。

だけど、こんな風に、ひとつひとつの苦しさを癒していくように、また新しく東京を巡ることはできるのかもしれない。楽しいことやあたたかいひとや、幸せな記憶で汚れを剥がすことや、塗り潰すことはできるのかもしれない。

わたしはまだ、東京で暮らしていく。

 

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