粥日記

A fehér liliomnak is lehet fekete az árnyéka.

帰省と、これからのやりたいことと生き方について

東京から地元の宮城県に帰り、3日間寝込んだ。

食事と家の用事以外のほとんどの時間を寝て過ごしながら思い出したのは、10年ほど前に韓国留学から日本に帰ったときのことだった。1年間の留学を無事に終え、久しぶりに家族のいる家に戻ってすぐ、わたしは虫垂炎で倒れ入院した。

「1年間、外国で日本人学生がひとりぼっちで、平気なようでも堪えていたものがあったのでしょうね」

医師や教授にそう言われた。本来であれば、半年前には痛みが出ていてもおかしくない病状だったそうだ。外国で病気になるわけにはいかないという気持ちが、自分のどこかにあったのだろうか。

幼い頃から実家にあるソファに横になり、いつの間にか母がかけてくれた毛布の毛の柔らかさを感じながら、きっとこれもあの時と同じだと思った。会社を休職していても、わたしは休めてはいなかったのだろう。気が抜けて、目を開けていることも立っていることもできなかった。母の手伝いもしたかったし行きたい場所もあったけれど、最初の3日間は眠り続けた。「すうすうと、気持ち良さそうに寝ていたよ」。東京では、わたしはそんな風に眠れていたのかな。

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仙台・国分町の稲荷小路にいた野良猫

一番の悩みは、これから先も文章の仕事をしていくかどうかだった。昨年の夏頃は、本も読めず文章を書くことも難しかった。最近は、病状にもよるけれどそういう日は減ってきた。調子が良いと、1日2~3冊の本を読める日もある。

けれど、そんなムラのある自分がいま以上の量の仕事を管理していけるかというと不安で、なかなか営業をしようと動けない。幸いにも、Webメディアや雑誌の執筆のお仕事を定期的にいただいている。とにかく、いまいただいている仕事を真面目にやっていこう。そこから動けないでいた。

そして、病気による意欲の低下によって、新しい何かに強い興味を持つちからが弱っていた。以前のような「これはわたしが取材して記事にしたい」と提案していた頃のパワーが出ず、「わたしでなくても良いのでは」「書いて、何か変わることがあるのだろうか(ないのでは)」「そもそも、わたしが興味を持つものに興味があるひとなどいないのでは」と、企画書をつくってみてはゴミ箱に捨てた。

実家に昔からいる犬のぬいぐるみを抱き、毛布と田舎の空気の心地良さに包まれていると、もう潮時と決めたらいいじゃないかという思いが湧き出てきた。頭では確かに、はっきりとそう考えている。なのに、嘘のように静かに抵抗の涙が流れてくる。まだ書いていないことがあるんじゃない、と誰かがわたしに聞く。わからない、でもそうかもしれない。泣いている自分を認められずにぎゅうと目を瞑ると、また眠りの中に落ちていった。

 

4日目、わたしはほとんど元気になっていた。その日は家族がそれぞれに用事があり、わたしは午後からひとり仙台の街をゆっくりと散歩した。

特別行き先を決めず、見知った道や入ったことのない路地を歩いてみる。コロナ禍であっても好きな飲食店が生き残っていることを確認して、あとで家族と訪れてみようと思った。お世話になったことがある風俗店が入ったビルの階段から、そのお店の子であろう華奢な女の子がお仕事バッグを持って降りてきた。あの子がつらい目に遭いませんように、嫌なお客さんに遭いませんようにと、大きな黒リボンが揺れる背中に祈った。

女の子たちのことを書きたいと、ライターになってすぐの頃は思っていた。それで書いたのが、2016年のこの記事だ(※性的・暴力的描写が含まれる記事なので、苦手な方や避けたい方はご注意ください)

mess-y.com

あのお店で出会った子たちに認めてもらえるような記事を、わたしはまだ書けていないと思う。

 

また、宮城では久しぶりに恋人以外のひとに触れた。母が抱きしめてくれ、親戚のこどもを抱き、ずいぶんとおじいちゃんになってしまった祖父が手を何度も握ってくれた。みんな、わたしがいるだけで嬉しいと言ってくれるひとたちだった。

コロナウイルス感染の心配もあるだろうからとあまり友人知人には声をかけなかったが、先輩がひとり食事に誘ってくれた。病気の一番つらいときにも連絡を取っていたひとだ。年単位で会っていなかったが、久しぶりに会ったわたしに「あなたは前と変わらず、あなたのままでほっとした」と言ってくれた。手を握って、来年でも来月でも、いつでも帰ってきたらいいから連絡してねと言ってくれた。

東京では、何か成果を出さないとコミュニティにいられない、というプレッシャーがあった。広告業界でもライター講座でも企画の講座でも、「飲み会に来るなら何か1つくらい面白い話を持って来ないとね」と言われたことがあり、いまだに夜に思い出しては心臓をキュッとさせている。何も土産になる話がなく、怖くて集まりを休んだことが何度かあった。相手に利益を与えられないなら会うな、という言説は、仕事に限らず友人関係でも耳にすることがあり、その罪悪感から性的な関係に引っ張られてしまったこともあった。

自分はずっと、自分がいても良い場所を探して東京を彷徨っていたけれど、いまだにそれは見つけられていない。探し方が下手くそなのか、そもそもここにはないのか、本当は誰もが自分でゼロからつくっているのか。

 

きっと、今後もすぐにはわたしのいても良い場所は東京に見つからないだろう。でも、もうそれを探してあてもなく歩き回り傷ついたり息もできなくなったりするのは疲れた。東京ではやるべきことを真面目にやり、年に一度、1ヶ月程度宮城に帰って自分を溶かす。そんな暮らし、働き方ができたなら、それが一番良い気がする。その形がどうすれば叶うか、いまはまだわからないけれど。

そして、まだ東京でやりたいことがあるならば、悔いのないまでやってみるべきだ。いろいろ考えていることはあるが、一番は、最初に考えていたように女の子のことを書き続けたい。そのためにできることは、たくさんありそうだ。

 

充電、というよりは、ガチガチに硬化していた自分の殻を溶かし、やわやわの部分を取り出してきたような帰省だった。病気をきっかけに、「バランス良く上手く生きられるように変わりたい」と思っていたけれど、わたしには無理だ。けれど、無理とはダメという意味ではない。ガチガチとやわやわを行き来する、極端な生き方を受け入れるのだと決意した。もともと、「韓国に行きたい」と思った2日後には飛行機に乗り込み、実態を知りたいと思ったら風俗店に面接に行ってみるような思い切った人間だった。そんな生き方は楽しいわけではないけれど、それが生きやすいならそう生きるべきだ。

がんばるぞ、わたしはわたしを。