粥日記

ライター むらたえりかの日記

子どもがマイメロにハマって許されたような気分になった自分が嫌だった話

子どもがマイメロにハマった。

Netflixで配信されているアニメ『My Melody & Kuromi』の予告動画・切り抜き動画を、求められて毎日朝晩合わせて20回は再生している。本編には10歳以上からの年齢制限があるので見せていないが、子どもは予告編を見てマイメロクロミのセリフや仕草の真似をする。LE SSERAFIMが歌う主題歌が流れると、脚をドタバタと踏み鳴らして自分なりのダンスを踊る。それが堪らなく楽しいようで、いまのところは満足してくれている。

せLE SSERAFIMLE SSERAFIM

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本編を見せられないことにわたしが勝手に後ろめたさを感じて、なにかしてあげたくなり、サンリオショップに行きマイメロのぬいぐるみを買った。子どもはそれも気に入って、マイメロのセリフの「かわいい」を真似して「かぁーいっ!」と声を出しては頬を寄せる。寝るときはベッドに連れて行って、夜泣きのときには引き寄せて顔をうずめ、朝起きれば一番に抱きしめている。

生活にマイメロという楽しみが加わってますます笑顔が増えた子ども。それを見ているわたしのほうは、だんだんと自分の心の嫌な部分を無視できなくなっていた。

「やっぱり男の子だね」

まんまる、どうぶつ、くだもの、ふうせん、おほしさまにシナぷしゅ。そのあとに子どもが興味を持ったものは、絵本のなかのバスだった。まだ寝返りできたかどうかという時期の写真を見返すと、乳幼児向けのバスの絵本に興味を示してじーっと見ている子どもの姿がある。ときどき手を出したり、本をめくるような仕草も見せた。

そんな様子の写真を人に見せたときに、「バスが好きなんて、やっぱり男の子だね」と言われて、なんとも言えない気持ちになった。いやいや、そういうことじゃなくて、と言いたい気持ちを、言ってどうなるという頭でもって飲み込むと、変に口が乾くような気がして不快だった。

子どもはますます「のりもの」に興味を持つ。生活圏にあったバス、電車。真っ赤で目をひく消防車や、白黒でわかりやすいパトカー、近所の病院によく来る救急車。絵本や歌の動画のなかでビュンビュンかっこいい新幹線。歩きはじめた頃にドクターイエローのおもちゃを贈られると、気に入って離さなくなった。乗った記憶もないであろう山手線と京浜東北線に目をキラキラとさせ、最近はきかんしゃトーマスが大好き。特にパーシーと、リニューアル版アニメのディーゼルがお気に入り。

わたしも、まったく興味がなかった電車や新幹線の名前をいくつも覚え、消防車や救急車の細かい種類もたくさん知った。喜ばせたくてのりもの関連のおもちゃや絵本、図鑑を用意する。少しでも機嫌よく保育園に行ってほしいから、のりものやトーマスの柄の服を着せる。そのたびに頭の中で聞こえる「やっぱり男の子だね」の声に、そういうことじゃないんだけど、と言い訳する。

 

そんな日々のなかで、たまたま流れたマイメロの動画が子どもにハマった。淡いピンク色のマイメロのぬいぐるみを抱きしめる子どもの姿は、「男の子らしく育てようと思っていなくても子どもは『やっぱり男の子』になってしまうのか?」と悩み、自分の子育てのやり方に不安を抱いていたわたしにとって、なにか「許し」のように感じられた。マイメロに頬ずりして「かぁーいっ!」と首を傾げ、ニコッと笑った子どもから後光がさしたように感じたのは、自分の子ども可愛さからだけではない。

この子がのりものを好きになったのは、わたしが男の子らしく育てていたからじゃない。この子はマイメロも好きになれる、かわいいものも嫌がらずに好きになってくれた。そう思ってほっとした自分の背中にドロッとした嫌悪感が覆いかぶさってきた。

 

「やっぱり男の子だね」に抵抗したいあまり、便宜上か無意識か「のりものは男の子らしい」「マイメロは女の子らしい」と分類していた自分が不愉快だ。「男の子らしく育てないように」と、部分的に子どもの本質をコントロールしていたかもしれない自分が嫌だ。「意識的に男の子らしく育てることを避ける」という方針の理由に、SNSでの男児叩き・男児ママ叩きへの怯えが少しでも含まれている自分にがっかりだ。

キラキラと輝いて見えた子どもにあてられて、自分の気持ち悪い部分が一気に明るみに出たようだった。

元々は、「子どもが何を好きでも肯定しよう。何を好きでも『性別らしさ』ではなく『この子らしさ』に回収していけるように努めよう」という思いで、子育てをはじめたはずだった。なのにいつの間にか、誰かに言われた「やっぱり男の子だね」や男児叩きの風潮などに引っ張られている。自分の育て方や子の性別、この子を産んだ自分が常に監視されているように感じられ、誰かの固定観念や非難から子どもを抱えて逃げているような閉塞感にいつも追われていた。

だから、マイメロを気に入った子どもを見て、「これで”世の中から”許される」と感じてしまった。子どもはただ好きなものを増やしただけなのに。世の中との付き合いかたをわたしが子どもに伝えていかなければいけないはずなのに、世の中の顔色をうかがって、子どもをとおして(言ってしまえば贄のようにして)わたしが安心を得てしまった……。

そんなわたしの内省を別に、今日も子どもは朝起きて母の次にマイメロに微笑みかけ、保育園に連れて行き、先生に「あら、かわいい子を連れてきたね」と言われて嬉しそうにする。毎年たくさんの子どもを見ている先生たちが「男の子なのに」のような言葉を一切かけずに「それいいね」と言ってくれることに、ついまた安心を感じてしまう。先生たちがわざわざ取り沙汰さないのは、マイメロのようなかわいいものを好きな男の子が乳幼児時代にはありふれていることを示しているからかもしれず、その推測にもほっとする。

 

 

学校の夏休み中に学童の手伝いに行くと、小学生たちの持ち物や服装はほとんど「男の子っぽいもの」「女の子っぽいもの」に分かれていた。ときどき「先生見て、ぼくのたからもの」と筆箱に隠したキラキラハートのセボンスターを見せてくれる男の子や、サッカーチームに入っていて常にユニフォームや練習着で過ごす日焼けした女の子がいるくらい。その子たちはからかわれることはないようだったけれど、なんとなく「ちょっとだけ変わった子」としてのポジションについている(つかされている?)空気があった。そこにいて当たり前の存在だけど、何かを共有する「仲間」としては扱われていないような。

マイメロもトーマスも、子どもはいつまで好きでいるかわからない。今朝抱きしめていたマイメロ、夢中で見ていたアニメのトーマスから、今日保育園から帰ってきたときには卒業してしまうかもしれない。でも、もしかしたら、セボンスターやサッカーのように、周りと違う空気をまとってしまってもずっとずっと心の支えになる存在になるかもしれない。

そう想像して願うのは、子どもが誰からも面と向かって「男の子なのに」と笑われたり眉をひそめられたりしないこと。もし残念ながらそんなことが起こったとしても「別にいい」と思えるような心の土台を、親の自分が築いていけること。

着替えを嫌がる子どもがわたしの腕から逃げ出て、ソファに寝ていたマイメロのぬいぐるみに駆け寄る。仁王立ちでわたしのほうに向き直り、「イヤイヤッ!」と泣き顔で叫びながらマイメロをぎゅーっと抱きしめる姿に意思を感じて嬉しくなる。好きなこと、嫌なこと、安心すること、怖いこと、いっぱい教えてほしい。その気持ちの守りかたや表しかたを、わたしも一緒に考えていくよ。

 

トーマスでは、わたしはブルーノというブレーキ車の子が好きです。