粥日記

ライター むらたえりかの日記

愛情(など)をめぐる旅のはじまり

出産をした日の夜は、産んだ子どもに会えないまま眠った。分娩時の出血が多くて、わたしは安静にしていなければいけなかったからだ。分娩台のうえで、輸血が必要になるかもしれず、その場合は総合病院に搬送することになるという説明を聞いた。出産直後で身体がハイになっていたのか、貧血のようなつらさは感じなかったが、あとから写真を見たときに唇まで白くなっている自分の顔にギョッとした。これは家族も「死ぬかも」と不安がるはずである。

子どもは翌日の午後に病室にやってきた。分娩直後に少し顔を見たけれど、わたしは数時間分娩台に仰向けになったまま動けなかったので、あまりじっくりとは見られなかった。イメージしていた赤いシワシワの顔ではなく、ピンク色の肌にはどちらかというとハリがあって、そこに剃刀でスッと引いたようなきれいな線で目が形づくられていた。乳を吸ったことがなくまだ吸いだこのない唇の奥は、歯がないためか深い影の色で満ちている。人形みたいなこの小さいものが生物であることを説明するかのように、髪の毛にはうっすらと胎脂が残っていた。

あまり子どもと触れ合う機会のなかったわたしは、この新生児をどう扱ったらいいのかわからなかった。病室に二人になって、少し抱いてみるも不安になり、新生児用のベビーベッドに戻して、家族に見せるために数枚写真を撮るなどした。「本当にわたしが産んだのか……」と、納得できない気持ち。昨日の午前中までお腹の中で羊水に包まれていたものが、いまは目の前で肺呼吸をしている。すごい。不思議だ。そう思うと目が離せなくなった。

 

待望の我が子、というわけではない。自分の人生に子どもがいる想像は、最初の結婚が終わった時点でしなくなっていた。子どもはいてもいなくてもいい。子どものいない未来のほうが自然に想像できる。そんな状況での妊娠だった。

「ずっと会いたかったよ!」
「生まれてきてくれてありがとう!」

同じ時期に出産した母親たちがSNSに載せている言葉が、自分の中からまったく出てこないことに少し不安を感じはじめていた。「とうとう、本当に、産んでしまったな」というのが、わたしの正直な心の内だ。「産んでしまった」というのは後悔の意ではない。身体中を、不可逆的な、取り返しのつかないことをした実感がめぐっては、皮膚を粟立たせていた。このお人形のような小さいものを死なせてはならないのだという責任の重さも、わたしを震え上がらせた。

 

この子どもを産む前のことだ。出産予定日が近づくにつれて、Twitterのマタニティアカウントで「超過ランド」という言葉を目にすることが増えた。出産予定日を過ぎてもまだ子どもが産まれない世界にいることを指すのだという。予定日前に産まれることも、予定日を過ぎることも、まったく異常ではないのだが、子どもに会いたくて堪らない人や、一刻も早く妊婦生活を終えたい人にとっては「超過ランド」入園はメンタルを揺るがす事態のようだった。

わたしは、出産予定日が近づくにつれてかえってメンタルが安定していった。映画『三年身籠る』のように、この先もずっと腹の子がお腹にいるような気さえしてきて、それならそれでいいと思えていた。どこかで「胎児が外に出たいタイミングで、陣痛は起こる」というようなことを読んだからかもしれない。出たかったら出るし、お腹の中が快適ならまだしばらくそこにいるだろう。なんとなくそう考えていた。自分に言い聞かせていたのかもしれない。

このとき多分、わたしは胎児に意思があると心から信じていたわけではなかったはずだ。わたしと胎児、両方の身体の仕組みによって、胎児は産まれさせられ、わたしは産まされるのが、実際のところなのではないか。「お互い大変だけど、なんとかがんばりましょう」くらいの軽い連帯の気持ちを、わたしは子どもに抱いていたと思う。

 

胎児とわたしとしての付き合いが長いのだから、急に「人間の赤ちゃん」とは思えず、産まれてからもわたしの子への認識はあやふやだった。呼吸が小さすぎるため、ちゃんと息をしているのか心配で何度も確認した。起こさないように指先で胸に触れると、かすかな上下を感じ、その度にこの子どもは人形から生き物になる。

自分の子どもをはっきりと「人間だ」と思えるようになったのは、乳を飲ませるようになって2日目のことだった。自分の乳が出ているのかも、子どもが本当に乳を飲めているのかもよくわからず、まだ練習段階だったときに、様子を見に病室に来た助産師さんが言った。

「あら、この人、おっぱい飲むの上手いわ」

この人。わたしはこのときから何度も、この言葉を反芻している。これまでたくさんの母親と赤子を見てきたあの助産師さんにとって、この子どもは「この子(誰かの子ども)」ではなく「この人」だった。この人。人であり、人間であり、それまでひとつだった母親からすでに離れた、別個の身体と人格。この子は「この人」だ。

やっと、子どもを受け入れる心が整った気がした。わたしは、他者である「この人」を自分の子どもとして育て、ある時期まではそばで生きていくのだ。どうなってしまうのか見えていなかった未来の景色に、一本の道が敷かれたように感じた。

 

毎日見ていても飽きない程、子はおもしろい。「可愛いと思わないの」と家族によく聞かれるが、「自分の子だから可愛い」というような気持ちはほとんど湧いてこない。愛おしい気持ちはあるように思うけど、これが愛おしいなのか? とよくよく観察しているところだ。だからといって愛情がないわけではないのだが、可愛い可愛いと思っていないと周囲から見たら「子どもを愛している」と感じられないかもしれず、少し不安だ。

これからわたしは、この小さな人をとおして「愛情」や「親子」について考え彷徨う旅に出ていくのだろう。その旅について、この先書いていければと思っている。

 

 

▼出産前に読んで、また読み返している本