粥日記

A fehér liliomnak is lehet fekete az árnyéka.

マルタと長女の私の再会

キリスト教系の学校に通っていた。国語の教科書を配布された日に全部読んでしまうような学生だったので、少し時間はかかったけれど聖書も自主的に読んでいた。中には内容的に読むのがつらい箇所もあり、そのひとつが、新約聖書ルカによる福音書」にある「マルタとマリア」のお話だった。 

 

マルタとマリアは姉妹である。イエス・キリストがある村を訪れたときに、姉・マルタがイエスと弟子たちを家に迎え入れる。お客様をもてなすために、マルタはせわしなく働いていた。しかし、妹・マリアはイエスのそばに座って彼の話に聞き入っている。

「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

新約聖書ルカによる福音書」10:40~42 p.127)

この箇所が、私には受け入れ難かった。お客さまをもてなしたいマルタの気持ち、妹にもそう振る舞ってほしいマルタの気持ちが、長女の私にはあまりにも自然に想像できてしまったから。そして、そんな私は聖書とイエス咎められ、責められる存在であると感じてしまったから。

 

 お客さんが来たら、くつろいで過ごしてほしいだろう。「なんだこの家は、お茶も出さないで」と思ってはほしくないだろう。妹が一緒にもてなしの準備をしてくれたら、作業が早く終わって私だってイエスのお話をもっと聞けるかもしれないの。
それなのに、イエスは「マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」と言う。どうせえっちゅーねん。私がやらなかったら、誰がお茶を出したり夕食の準備をしたりするんじゃい。私しかおらんやろがい。

「お姉ちゃんなんだから、しっかりして。何でも自分でできるように」を内面化して生きていた(いまでもそうだ)私にとっては、マリアの態度とイエスの言葉は身動きができなくなるくらいつらい、もはや「仕打ち」のように感じられた。
礼拝や聖書の授業でこの箇所が取り上げられるときは、耳を塞ぎたくなるほどつらかった。同じページの「善いサマリア人」のお話は大好きだったので、そこを繰り返し読んでやり過ごしたことを覚えている。

 

映画『サマーウォーズ』の、男性たちが座って飲み食いし、女性たちが台所で忙しく働くシーンに苦しくなる人なら、わかってくれるのではないだろうか。
座っている人たちのために働いているとき、私たちは“そうせざるを得ない”面を抱えている。もてなしや炊事の好き嫌いとは別に、自分がやらなければいけない状況であったり、背負った役割であったりを感じてそうしている。

「嫌ならやらなきゃいい」
「誰も頼んでないじゃん」
「女が、妻が、長女がやるのが当たり前」
「それくらいのことを不満に思うなんておかしい」
「好きでやってるんだろう」
「もてなしもできないなんて恥ずかしい」

私たちを台所に呼び戻す言葉はいくらでも思いつくし、思い出せる。そうした言葉とイエスの間で、引き裂かれるマルタを想像できてしまう。

 

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仕事に関係あるときくらいしか聖書を開かなくなって久しい。 避けていたマルタのこともすっかり忘れていた。マルタに再び出会ったのは、遠藤周作『聖書のなかの女性たち』講談社文庫)を読んだからだ。そこで私は、10年以上マリアとイエスについて、そしてマルタについて、誤解していたことを知った。

 

聖書のなかの女性たち (講談社文庫)

聖書のなかの女性たち (講談社文庫)

 

 

 この「マルタとマリア」の話からキリストが姉マルタを叱責したとお思いにならないで下さい。
 キリストは自分をもてなすために台所で働くマルタの心はよく知っていられた。ただ彼はこうした良妻賢母的な彼女の性格の陥りやすい過ちをこうした瞬間をとらえて優しく教えたのです。マルタよ。あなたは立派な女性だ。しっかりとした性格だ。あなたはこうして私のために働いてくれている。

遠藤周作『聖書のなかの女性たち』講談社文庫 p.63)

 

これは「聖書から読み取れること」であり、遠藤周作の解釈であり、「聖書に明記されていること」とは違う。でも、少なくとも遠藤周作はマルタを「立派な女性だ」「しっかりとした性格だ」と認めている。それだけで、私はどうしようもなく泣きそうになってしまう。

この続きに、イエスがマルタに対して本当に語っていたことが示される。人間は他人をジャッジしてしまう弱さを持っているということだ。

 

エスは、自分を慕ってくるマリアを贔屓して甘やかしていたわけではなかった。実際に聖書や本書を読んでもらわないと説明が難しい部分もあるが……。遠藤周作の解釈を読んでから改めて聖書を読むと、むしろ、マリアよりも躓きかけているマルタのほうをより心配し、愛してくれていたのだとすら感じられる。

 

慌てて本棚から聖書を引っ張り出し、「ルカによる福音書」の「マルタとマリア」、そして「ヨハネによる福音書」の「ラザロの死」「イエスは復活と命」を読む。

エスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

新約聖書ヨハネによる福音書」11:25~27 p.189)

この前の部分を読むと、マルタの受け答えは完璧といえるものではない。でも、マルタは私のようにイエスを避けず、腐らず、自分がイエスに何を言われたのかをずっと考えていたということが、完璧ではないからこそわかる。

この11章には、「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。」と書かれている箇所もある。名前が出ているのは、マリアではなくマルタだった。私はそのことにずっと気づかなかった。人にやさしく、という本当のメッセージに気づけないくらい、「マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」という言葉から目をそらしてきたから。

 

 *****

 

私はただキリスト教系の学校に通っていたというだけで、キリスト教を信じているというわけではない(興味はあるけど、自分がだらしなさすぎて信じ続ける自信がない)。でも、キリスト教や聖書の「善く生きる」とか「人をジャッジしない」とかそういうエッセンスの部分は、自分が生きる上でひとつの指標とさせてもらっている。

今回、「マルタとマリア」への誤解が解けたことで、また改めて「善く生きる」とか、人にやさしくとはどういうことかという点について考えることができた。そして、誰にもわかってもらえないと思うときでも、人の弱さを見つめている遠藤周作だけはきっと助け舟を出してくれるという思いを改めて強くした。

 

10年以上誤解していた友達と再会できたような気分だ。この年齢になっても(なったからこそ)、本を通してこうした再会・和解ができる。最近はほとんどの時間を「死にたい」と思って過ごしている私にとって、数少ない「生き続けてみて良かった」と思える瞬間であり、ありがたいことだと思う。