粥日記

A fehér liliomnak is lehet fekete az árnyéka.

【4/20~4/26】幸せがわからなくても許されたい

4月20日(月)

外出できず、また在宅勤務で誰にも会わない誕生日。私の誕生日なんて誰の気にも留まらないと思い込んでいたけれど、SNSなどに多くのお祝いメッセージをいただいた。戸惑うやら嬉しいやら。嬉しい。

「この年齢になったら誕生日なんて関係ない」という同世代も増えてきた年齢。でも、私は毎年誕生日だけは、底の底にあった気分が数センチだけ浮いているような感覚があって、どうでもいいと思えない。自分を責めることなくケーキを食べられるからかな。似た感覚のためかクリスマスも好きだ。苦しい気持ちを一切感じずにケーキを食べられる日。

日付が変わってからシフォンケーキを作りはじめた。シフォンケーキは焼き立てよりも1~3日置いたものがおいしいとのことなので、夜中のうちに焼いておいて、夕飯のあとに食べようと思っている。 

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これが。

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こうなって。

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//こうじゃ。\\

5年ほど前だろうか、一人で函館旅行をしたとき、たまたま知った「函館おたふく堂」のシフォンケーキを食べ感動し、東京に戻ってから熱心にシフォンケーキづくりをしていた時期があった。何度か料理教室で作ったときには上手くいったのだが、家で作るとなかなか花が咲かなかった(シフォンケーキの表面がお花のように割れることを花割れとか花開くとかいう)。何度やっても満足いかなかったので、私にはお菓子の才能がないのだと思った。通っていた料理教室では料理・パン・ケーキの資格が取れるのに、ケーキだけ取らなかったほど、自分のお菓子づくりを諦めていた。

なのに、久しぶりに作ったらめちゃくちゃ花咲いた。あまりの景気の良さに夜中に一人で笑ってしまった。パンづくりを続けていたから、小麦粉など食材の扱いに慣れたのかな。花が咲きすぎるのも良いことではないのかもしれないけど、咲かないよりは嬉しい。生地も弾力がしっかりとありつつもしゅわしゅわふわふわで、とてもおいしかった。自分で作る料理がおいしいのは、そういう能力を与えてこの地に産み落としてもらったことは、幸いなことである。 

レシピは「鎌倉しふぉん」のものです。

いつか函館おたふく堂のような、卵白と豆乳を使った白くて溶けるような食感のシフォンケーキを作ってみたい(レシピ本の企画を出してみればいいのでは……?)。

夜には、中学からの友達が電話をしてくれた。お互いの無事を確認し、近況を報告し、コロナウイルスに関する各所の対応について憤ったり労ったりして楽しく話した。一緒にいた時間が長かったからか、お互い長女同士だからか、彼女と話すとほっとする。

その子との電話を切ったあとには、また別な人が誕生日を祝うために電話をしてきてくれた。そして、電話の向こうでバースデーソングを楽器で弾いて聞かせてくれた。なんと。私の人生にそんなことが起こるのか。

色んな人がお祝いの言葉をかけてくれて、家族もめいめいにメッセージを送ってくれて、昔からの友達と話せて、歌まで贈ってもらって。なんか人生のフィナーレっぽいな、と感じ、嬉しくて高揚する一方で苦しくなってなかなか寝つけなかった。眠気が来るまで、動画サイトでミキの漫才を見続けた。

4月21日(火)

書籍の入稿データを納品していただき、データなのだけど、なんだかその重みがありがたくて嬉しくて泣いてしまった。私は情緒が不安定なのではなく、情緒が激動する人間なのだと思った。関わってくださった(と私が言うのもどうにもおこがましい気がする)人全員に、クッキー缶などを贈りたい気持ち。書籍を刊行するごとにそんなことしてたら生活していけなくなりそうなので、何か季節のご挨拶などのときに一気に贈ろう。

この恩を忘れないようにしよう。もう腕に彫りたい。恩を。

書店が休業しているので、ゴールデンウィーク中に読みたい本をhontoで4冊買った。ゴールデンウィークまでに届かないかもしれないけど、それでもいいよ。

ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい

ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい

  • 作者:大前粟生
  • 発売日: 2020/03/11
  • メディア: 単行本
 
ザリガニの鳴くところ

ザリガニの鳴くところ

 
死にたくなったら電話して

死にたくなったら電話して

  • 作者:李龍徳
  • 発売日: 2014/11/20
  • メディア: 単行本
 
あなたが私を竹槍で突き殺す前に

あなたが私を竹槍で突き殺す前に

  • 作者:李龍徳
  • 発売日: 2020/03/19
  • メディア: 単行本
 

4月22日(水)

韓国ドラマ『トッケビ~君がくれた愛しい日々~』を流しながら仕事をする。

www.netflix.com

もうそんなに韓国語は話せないが、韓国語が耳から入ってくる状況を作ると自然にアウトプットが韓国語になる瞬間がある。仕事に集中しているとドラマの音声に気を取られなくなっていくのに対して、だんだんと心の中のひとり言が韓国語になる時間は増えていく。自分が覚えたい言語の音声を浴びるように聴くことが、言語習得の近道という人がいる。なんとなく、そうなんだろうなと思える体験。

先週、コロナウイルスの影響をどれくらいに見なしたらいいかわからず、病院に行けなかった。なので、薬を処方してもらえておらず「死にたい」という気持ちになりやすい今週。ここしばらくなかった「ベランダから飛び降りなければいけない」という強迫的な気持ちが湧いてきて、夜になるにつれて落ち着かなくなる。飛び降りても死なない高さに住んでいるくせに、頭の中の自分は7~8階くらいの高さから身を乗り出している。

「苦しい」とか「しんどい」とか、できるだけTwitterに書いてみる。隠さないことも必要なんじゃないかとそのときは思ったのだが、後になってみるともう書いて良かったのか悪かったのかよくわからない。

何をやっているんだ。私の暗い気持ちのせいで、誰かを暗い気持ちにさせてしまっていたら申し訳ない。お前に他人への影響力なんかあるわけないだろと、脳のどこかにいる自分の囁き声がうるさくて仕方なかった。

4月23日(木)

朝方まで眠れず、音や人間の声が聞こえると気持ちが悪くなるので動画を見たりすることもできず、ふと「オシラサマ」について思い出していた。

遠野物語の「オシラサマ」は、馬を愛して馬と結婚した娘の話。娘の父親が怒って、馬を木に吊るして殺してしまうが、娘はその死んだ馬に乗って空へ飛んで行ってしまう。はい、どんとはれ。ざっくりそういう話。

こどもの頃に絵本か何かで読んで、その少し怖くて美しい挿絵と娘の気持ちの強さに惹かれていた。自分の意志で愛する美しい馬と結婚した娘。娘でも、女でも、家長にである男に反抗して「自分」を貫いて良いのだと勇気づけられていたのかもしれない。

こどもの頃は、祖父や父がまだ家の中で強い存在であろうとしていて、祖母、母が泣いているのを何度か見たし私も泣いた。こどもだった私は祖父に抵抗できず、自分が何をさせられているのかわからないままに、大好きな祖母を傷つけてしまったこともあった。馬と結婚すると決めて家や家長である父を捨てた娘の強さ。その娘を描き残した「遠野物語」。幼い私の後悔を肯定してくれた。

ただ、いまになって一つ気になっていることがある。馬は娘と結婚したかったのだろうか、つまり、結婚に馬の同意があったのだろうかということだ。

聖なるズー

聖なるズー

 

動物性愛者について書かれたノンフィクション『聖なるズー』(集英社)。動物を性的対象とする人たちがどのように自分のセックスと向き合っているのか、著者が取材、研究をしていく。

言葉での意思疎通ができない動物と人間のセックスは、同意があったかどうか他者からはわからない。人間から動物へのレイプ、性暴力ではないのか。本書の中ではそうした問題提起もされる。動物性愛者たちの中でも「レイプではない」の一点張りではなく、その点についてさまざまな意見、見解があるようだ。

オシラサマ」の娘が馬とセックスをしたかどうかは、少なくともこども向けに書かれた絵本の中ではわからなかったはずだ。でも、昔の物語では「結婚や一緒に寝ること=セックスをした」と解釈する場合もあるから、もしかしたらそうなのかもしれない。ただ、セックスをしていなかったとしても、結婚だって双方の同意があってしかるべきだ。もし娘が一方的に馬と結婚していたならば、それで首をはねられ殺されてしまった馬が不憫すぎないか。馬、同意したんか……どうなんだ……。

もしかしたら、絵本ではなく「遠野物語」の元の話を読めば、そのあたりもクリアになっているのかもしれない。眠れなかったためにベッドの中で悶々と考えてしまったが、元の話を読めばすぐ解決するのかも。そのうち、「『聖なるズー』を通して遠野物語オシラサマ』を読み直す」というのもやってみたい。

遠野物語―付・遠野物語拾遺 (角川ソフィア文庫)

遠野物語―付・遠野物語拾遺 (角川ソフィア文庫)

  • 作者:柳田 国男
  • 発売日: 2004/05/26
  • メディア: 文庫
 

そんなことを考えながら寝たくせに、なぜかほとんど行ったことのない大阪に引っ越す夢を見た。大きな道路が通っていて、かつ坂の多いところに家を借りたようだった(そんな場所があるのだろうか)。

坂の途中にあるスーパーに立ち寄ると、前に又吉直樹が並んでいた。店員さんがうっかり又吉さんと私の買い物を一緒に会計してしまい、それを分けるのにもたついた。何も考えていなかったが、かごに分けられていく私の買ったものを見ると、私はどうも麻婆豆腐を作ろうとしている。

夢の中で、少し前に好きだったおじさんに「実はいま大阪に住んでます!」と連絡をしていた。夢で連絡しましたよ、と現実で連絡をしたら、少しやり取りできて嬉しかった。ずいぶん年上なのに相変わらず虚勢の可愛い人。交流が続くのは嬉しいけれど、私はもう私に虚勢を張るこの可愛い男を好きではないんだなとも感じた。

4月24日(金)

編集を担当した書籍の見本誌があがる日なので、今日は出社をする。可愛くて優しい手触りの本になった。必要な人のところに、ちゃんと届きますように。

先日、上司が私に言ってくれたことを思い出している。

「あなたは放っておいても大丈夫そうな人に見えてそうしてしまったけれど、それをいまは反省している。あなたは、ちゃんと見ていてあげたほうがいい人だったのかもしれない。それは、あなたが自立できていないという意味ではない。私が見ていてあげればもっともっと力を発揮できるあなたに対して、私がそうできていなかったということ」

いま思い出すと、これはこどもの頃からずっと私が大人に思ってほしかったことだったのかもしれない。

私は、大人の前で泣かないこどもだった。スーパーの床に寝転がってわがままを言う同世代のこどもを冷めた目で見ていた。転んで血だらけになっても、大人になっても消えないほどの火傷を負っても、「大人の男でも泣く」といわれる痛い注射を定期的に打たなければいけなくても、大人の目があれば耐えた。大人には、「痛い」「つらい」という自分の感じたことよりも、「転んだ」「火傷した」「注射した」と事実を伝えるほうが得意だった。

怪我をしたり熱が出たりする私を見て、大人がうろたえたり走り回ったりするのを見るのが嫌だった。責められているみたいで。平気そうな私に、大人が落ち着いてくれるほうが良かった。

「この子は一人でも大丈夫だから」と言われていたし、自分でもそう思っていた。一人でも大丈夫でいなければいけないとも思っていた。「私はお姉ちゃんだから」という言葉は、下の兄弟と離れて暮らすいまでも私を奮い立たせてくれる。

「大丈夫そうな人」に見えるので、大した学歴も経験もないのに、就職や転職などがいつもあっさりと決まる。面接をしてくれた上司にも、そう見えていたのかもしれない。親ですら最近まで私のことを「一人で大丈夫な子」と思っていたのに(いまでも思っているかも)、上司はたった1年で私を「本当は見ていてあげたほうがいい子」と気づいてくれた。目の前で、私を自由に泣かせてくれた大人のひと。

私を「大丈夫に見えるけど、思ったよりずっと大丈夫ではない人」と気づいて、そう扱ってくれる人に、人生であと何回出会えるだろう。「大丈夫な人に見えてしまってごめんね」と謝ってくれる人に、あと何回……。

もしも、また私がパートナーを持つとしたら、それは「大丈夫ではない私」も最初から見えている人なのかなと思ったりした。

水野美紀の子育て奮闘記 余力ゼロで生きてます。

水野美紀の子育て奮闘記 余力ゼロで生きてます。

  • 作者:水野 美紀
  • 発売日: 2019/11/20
  • メディア: 単行本
 

誕生日に電話した友人が教えてくれた水野美紀の本を、やっぱり読みたいなと思ってhontoで買った。「24時間以内に発送」のが出ているが、購入してみると「発送までに7~10日ほど時間がかかる」とのメッセージが。なるほど、大丈夫、了解です。スマートフォンの決済完了画面に向かって思う。

購入画面の向こうにいる人に、ゆっくりで大丈夫です、無理しないでください、という気持ちが伝わる方法があったらいいのに。

4月25日(土)

夜に、たまたまつけていたテレビのチャンネルがドラマ『M 愛すべき人がいて』(テレビ朝日系)だったのでそのまま見た。水野美紀が活躍していて、昨日彼女の本を買った私は勝ち組であるという気持ちに。

すごく笑えるんだけど、ただ面白おかしくゲラゲラと笑ってはいけないドラマでもあるような気もする。SNSで感想を眺めていると、ときどき主人公の演技に「棒」とコメントをつけている人がいるのが目に入る。なんでそういうところしか目に入らないのだろうと、私はかえって不思議に思う。

4月26日(日)

久しぶり(?)に「死にたい」が止まらない日曜。先週病院に行けず、薬を出してもらっていないからかもしれない。私の身体を1mmでも離れると全部気持ち悪いこの世界。世の中をめちゃくちゃに破壊するか自分を殺すかしかないと思う。ここにいたくない。

しんどいけれどまだ立っていられるときには、小麦粉で何かをつくる。今日は、The Okura Tokyoのレシピでスコーンを焼いた。小さめの丸い抜き型を持っていなかったので、セルクルで抜いた。大きい。KFCのビスケットより少し大きいくらいの感じ。

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スコーンは、ちゃんと側面が割れてくれると嬉しくて愛おしい。もう少しはっきりと割れてほしかったが、大きさ的に仕方なかったのかもしれない。

ヨーグルトが入っているからか、バターたっぷりにも関わらずこってりした感じがせず食べやすい。サクサクと1つくらいすぐに食べきってしまう。いつか本物のオークラのスコーンを食べてみたい気もするし、自分が作ったものとのあまりの違いに悲しくなったらどうしようと思ってずっと食べられない気もする。

ゴロゴロとしていても罪悪感があり、仕事や家事をしていても「いまこれをやっていて、あれをやっていない自分」が責められているような気がして罪悪感がある。私が本当に休息をとろうと思ったら、やはり死ぬか、そうでないなら負っているもの全部をおろしてしまわなければいけないんだろうな。できるのか、そんなことは。

 

***過去

ericca.hatenablog.com