粥日記

A fehér liliomnak is lehet fekete az árnyéka.

【3/23~3/29】幸せがわからなくても許されたい

3月23日(月)

意思はあるのに身体が少しも動かない。横たわりながら田中圭一うつヌケ うつトンネルを抜けた人たち』(KADOKAWA)を読んでみた。

うつヌケ うつトンネルを抜けた人たち

うつヌケ うつトンネルを抜けた人たち

  • 作者:田中 圭一
  • 発売日: 2017/01/19
  • メディア: 単行本
 

「私だけがこんなにダメなんだ」と思ってたことが書いてあって「私だけではなかった」と思える反面、抜けるきっかけが自分ではどうにもならないものだったりもして(偶然の出会いやラッキーな転職とか)、ちょっと不安にもなりました

と、私の状況を知っている知人に感想を送った。元々社会的地位の高い人や実家の太い人、何らかの才能が認められている人の話が多く、持たざるものには参考にならないというレビューもまあまああるのだそう。たしかに。
じっと耐えて、ラッキーな何かが起こることを待つ。その間、生きられるか死ぬかはその人の環境や恵まれ度合い次第。そういうものなのかもしれない。治そう治そうとしてもどうにもならないのかも。

この日は、他にも好きな漫画を2冊読んだ。良い気持ちにはなれたけど、内容が全然頭に残らない(そういう症状)ので、しょんぼりとした。

昨晩最終話を迎えたドラマ『テセウスの船』(TBS系)を見る。原作を知らないので、知らないなりに面白く見たドラマだった。
第1話で主人公の名前が覚えられなくて(他の回と比べてあんまり呼ばれなかったような?)、取り急ぎ、心の中でずっと竹内涼真を「テセウス」と呼んでいた。最後の最後まで「テセウス、がんばれ……」と思っていた。彼はテセウスではない。

最後に登場人物がナイフで胴のやや左を刺される。刺されたときの顔と、刺されたセーターとナイフの境目と、セーターの色と編み模様が目に焼きついている。寝るまでに何度も思い出してしまう。夢の中で、私は自分の胴の左側にゆっくりと包丁を刺していた。

3月24日(火)

 韓国の「n番部屋」事件が日本でも話題になってきている。つらい内容のニュースだけに、なかなか全貌を探して読むことができない。多少韓国語がわかるのだから、こういうときにこそ自ら動いて、現地の情報や若者たちの考えを翻訳したりまとめたりするべきではないだろうか。

力だけあっても、使うことができなければ何の意味もない。無力だ。せめて署名活動であったり、支援が必要な人への金銭的な支援(寄付とかカンパとか)はしたい。しなければ。私は何もできないんだから……。

日本政府のコロナウイルス対策を見ていると、私のような鬱病で働けるかどうか瀬戸際にいう人間は真っ先に殺してしまいたいのだろうなという気がしてくる。弱い人間を殺し、生き残った強い人間だけで強い日本を作りたいように見える。

みんなが頼りにしている宗教もなく「基本的人権」について理解も浸透していない国では、そういうことも起こるのは不思議ではない。外から来たものは何でも腐らせてしまう国。また映画『沈黙‐サイレンス‐』が見たいな。

3月25日(水)

案の定、自分の胴の左側にゆっくりと包丁を刺す夢を見る。『テセウスの船』のように、私は少し厚手のセーターを着ていた。私のセーターの色は濃紺。力を入れているつもりはないのに、包丁の刃は私の身体に呼ばれているように自然に入っていく。痛くはない。でも、息があがって苦しい。ハァ、ハァと自分の呼吸が耳元で響いている。頭がグラグラとしてきて、目が覚めた。息があがっていた。

税金やら家賃やらを払うと、なんとなく「生きていてよい」と認められた気がする。逆に、もしそれが滞ったら「死ぬしかない」という気持ちに繋がりそうで怖い。

病院で出されている薬のせいか、最近は「死にたい」という気持ちが深くなるタイミングが1日数回になった気がする。病院に行く前は1日中死にたかったし、周囲の人の言動がすべて「死ね」「消えろ」という私へのメッセージのように感じられていた。それはいまも時々あるけど……。

仕事で使っている手帳に、自分の字で「無理せず」と書いてある。無理しない私ができることなんて、いま本当に限られている。

3月26日(木)

少しだけ調子が良い日。無事に会社には行けたけれど、ある作業で過集中になってしまった。終わったあとにどっと疲れて放心状態になる。仕事が何も手につかなくなると、周囲の仕事ぶりが気になってしまう。動けなくなっている私を、周囲の呼吸が、マウスやキーボードの音が、舌打ちが、溜め息が、電話のコール音が、独り言が、ドアを開け閉めする音が、責める。

最近知り合った男の子が、数年前に私が編集アシスタントで製作に参加した書籍の熱心な読者だと発覚し、二人でキャッキャと嬉しがった(文字のやり取りだけど)。「会って話したいね」「はやく会いたいね」と送り合いながら眠りにつく。最近は、コロナウイルスのせいもあって誰ともこんなやり取りが多い。

少し前、私が落ち込んでいるときに彼が「電話をしようよ」と言ってくれたことがあった。電話したいなと私も思ったけど、そのときは感情が不安定だったり上手く話せるかわからなかったりと不安だったので、返答に少し時間をかけてしまった。優しい子なので、私が電話したくなさそうだと察してくれて、それきりになっている。
「今日なら電話できるよ」と私から伝えることだってできるはずなのに、その優しさに甘え続けていたいのか、ずっとそのままにしてしまっている。

安定剤、睡眠導入剤などを飲むと脳がゆっくりと揺れる感じがしてクラクラとする。頭の中身だけが揺りかごに乗せられているみたい。人に甘えたくなる気もするけれど、すぐに眠ってしまう。

また胴を刺す夢を見る。「胴を刺すんだな」と私の頭はそれを傍観していて、私の身体はその通りに胴を刺す。嬉しい気持ちで眠ったはずなのに、私はまた自分を刺して、刺さった部分を見つめながらぼうっとしていて、なんだかかわいそうだった。

 3月27日(金)

鬱病かどうかに関わらず、自分の無力さを感じざるを得ない日々である。
最近は、ミキ、三四郎、ハライチのラジオが好きです。音声入力でツイートした直後にたぶん寝た。

3月28日(土)

絶賛されているようなのと、仕事でドラマレビューを書いているのとで、ドラマ『死にたい夜にかぎって』(MBS/TBS系)を2~3話分見た。

あまり内容を知らずに見始めたところ、主人公の恋人が鬱病や不安障害を患っていて、その描写や演技を見ていたら発作のように死にたさが迫り、「うう……」と声を押し殺せないくらいいきなり涙が出て止まらなくなった。これは危ない、と思って一旦見るのをやめた。もっと大丈夫なときに見よう。

死にたさを煽れることは、見た人の心を動かし影響を与えたということで、作品や演技としてはある意味成功していると言えると思う。それは理解できる。

とはいえ、私の「自殺してしまいたくなる」というツイートを原作の編集者さんが「いいね」したことは、なんだか自殺を後押しされたような感じがして怖かった。「読者、視聴者に影響を与えられたらそれは嬉しいだろう」とか「タイトルで検索して片っ端からふぁぼってるだけかもしれない」とか、色々頭で理解しようとしたけれど、私が死ぬことが作品へのリアクションとして最もレベルの高いことでありそれを期待されているような気が拭えなかった。

Twitterのフォロワーの方がそれに気づいてくれて、自分だったらこう思うとかこうするだろうとか、色々と私の気持ちがまぎれるようなことを言ってくれて、ようやく落ち着いた。私も、自分の記事の感想をリツイートしたり「いいね」したりすることがあるけれど、繊細な作品や記事であればあるほど気をつけたいと思った。

3月29日(日)

『オンドンズ』という漫画を読み始めた。最初は『夜画帳』というBL漫画を読みたくて見始めたサイトだけど、いまは『オンドンズ』が自分に合っているみたいだ。

www.lezhin.com

何ということはない、飼い主と猫2匹の暮らしの話。穏やかで優しさがあって読みやすい。絵を見ているだけでも良い。

「生きていれば
 誰しもが不思議な
 体験をする

 切に願えば
 諦めなければ」

と書かれたシーンを、無意識にスクショしていた。そうであってほしいと、私は思っているのだろうか。

インターネットのみんなたちとは違って、私はあんまり猫に馴染みがなく、個体個体の可愛さしかわからない(「猫、それは可愛い」とは思えないし、猫が好きすぎる人が怖い)。オンドンズ(ナオンとウンドン)の可愛さも正直わからないが、猫の可愛さというよりも、家族や共生する個としての大切さ、尊さというもっと広い雰囲気があるので、この作品が良いと感じるのかな、と思う。

ベッドに横たわって「死にたい」と思うとき、いつも考えることだ。他の方法に比べて、高いところから飛び降りるとか線路に身を投げるとかは、最初の一歩だけ思い切ってがんばってしまえば「やっぱり途中でやめたい!」とはできない、一番手数が少なくて済む自殺の方法だと思う。

私は小さい頃から妙に思い切りの良いときがある。幼稚園や小学校を脱走したりとか。死にたいと思って死ぬならまだいいけれど、自分が何を思っているのかもよくわからない混乱状態で「よし、死のう」となって思い切りだけ良くて飛び降りる。そんなことをしてしまう素質が十分に備わっていると理解しているので怖い。

そういえば、元夫は最上階とかやけに高いところに住みたがる人だった。

 

***過去 

ericca.hatenablog.com