粥日記

A fehér liliomnak is lehet fekete az árnyéka.

Tシャツのブランドタグを切った

生まれて初めて、Tシャツの首元についているブランドタグを切った。

布の触り心地が気持ち良くて買った、ネイビーのTシャツ。首にチクチクと刺さるタグがずっと気になっていた。
すぐにそのタグを切ってしまわなかったのは、いままでブランドタグを切ったことがなかったから。服のリメイクをするのが当たり前の人には理解ができないかもしれない。私は、売られている新品の服というものは「完成品」だと、頭のどこかで認識している。よほどのことがなければ、自分が手を加える必要はないし、なんなら作った人や売っているお店に失礼になるのではないかと思っている。だから、「タグを切ろう」という選択肢に手を伸ばすことがなかった。チクチクしたりするときは、我慢して着る。または、徐々に着なくなっていってしまう。

それなのに、私は初めてブランドタグを切った。糸をぷちぷちと切っている間、「こんなことをしてしまっていいのか」という戸惑いがあった。タグがなくなったTシャツを着ると、布の気持ち良い感触だけが残り快適だ。

なぜ今回、ブランドタグを切ろうと思ったのか。それは、「自分を大切にしている人というのは、自分の心地良さのためにブランドタグを切ることに何の戸惑いも疑問も抱かないのではないか」ということに思い至ったからだ。これは想像だが、自分を大切にできる人は自分の心地良い状況をつくることを厭わない。なぜなら、自分が心地良いほうが、自分にとって良いから。それだけ。もし大切な友だちが「紅茶を飲みなよ」とすすめてくれても、自分にとっていま必要ないもの・心地良さに寄与しないものには「いらない」と言うことができる。友だちに失礼かもしれないと勝手に想像して、無理して飲んだりはしない。

自分を大切にできる人になるためには、私もこのチクチクするブランドタグを排除しなければいけないのではないか。朝のバタバタとした時間に、ふとそんな風に思った。このタグを切ることで、私はまたひとつ自分を大切にするための階段を登れる気がした。家を出る時刻が迫る中、糸切り用の手芸用品を出す時間もなく、いつも使っている文具のカッターでタグを縫い付けている糸を思い切って切った。誰もいない部屋で、鼓動が早くなり呼吸の音が耳に響く。他者の思いより自分を優先することへの戸惑いと、自分を大切にできた達成感への嬉しさが、小さな空間を満たしていた。