粥日記

A fehér liliomnak is lehet fekete az árnyéka.

2020年10月5日、近況。

夜中に無意識に抜いた髪の毛先の色が、ずいぶんと明るい。透けるようなオレンジ色。5月の後半に美容師さんが「色が抜けてもきれいに見えるように、色が抜けるのも楽しめるように染めますね」と言ってくれたのを思い出した。そのときは、こんなに色が薄くなってしまうとは、互いに思っていなかっただろうな。

髪を抜いてしまうのは、緊張していたり何か焦っていたりするからだ。7月からの休職期間が4ヶ月目に入った。何なら1年以上休んだっていいのだと言ってもらえているけれど、自分の中にある仕事に復帰したい思いが、思ったよりも強い。半年が一つの区切りのような気がして、そう考えるとそろそろ復帰のために何かしなければいけないのではないか。でも、何を? わからない。そんな焦りが、私の指を髪の毛先に運んでいく。

抜いた髪がきれいな色だから、以前より落ち込まなくて済んでいる。だけど私が身につけたかった色は、この色ではないな。

 

ただ、自分が以前と変わったと思えることもいくつかある。

一つは、9月末になって人と会うつらさが減ってきたこと。読書会に参加したり、始発に乗って豊洲までお寿司を食べに行ったり、笑ってお酒を飲めたりと、嬉しい会合が続いた。前は飲んでも飲んでも酔えないことすらあったお酒は、いまは少ししか飲めない。けれど、楽しく飲んでいる人のお酒を1~2杯だけ分けてもらうことが、なんだかかえって嬉しい。その場の楽しさを味わいまた惜しむように、ちびりちびりと飲むことを覚えた。

美味しいものを食べようと思えるようになったことも、進歩だと感じる。この話はまた改めて書きたいが、「美味しいものを食べること」の価値がわからなくなっていたから。

それから、まる一日体調が悪いという日が減ってきた。つらくなりがちなのは睡眠の前後で、朝につらくとも昼過ぎから夕方には回復する。寝つけないのもまたしんどいけれど、自分を観察するとそれは寒さのせいであったり、さみしさのせいであったりと、原因を発見できるようになってきた。夏用の寝間着をしまい、ユニクロで秋冬用のスウェットを買ってきた。シャワーを浴びたりあたたかい牛乳を飲んだり、困っている自分に対して自分が何かしてあげられる。当たり前のことかもしれないけれど、以前はできなかったことだ。

自分で決めた予定が守れないとか、日中に突然充電切れのように寝てしまうとか、やっぱり時々まる一日動けない日があるとか、不安で不安で急に涙が出てきてしまうとか、まだどう対処すればいいかわからない困りごともある。今月は、自分の様子を見ながらそんな困りごとをどうしていきたいか考えていけたらいいな。

 

これは反省や自責でもあるのだけど、こうして少し元気になって余裕が出てきてやっと、私を助けたいと思ってくれている人や構ってくれようとしてくれている人がいるのだと、実感としてわかった。

声をかけてくれる人はこれまでも確かに存在していて、友人からもう数年会えていない知人、お仕事関係の方まで、何人かの人が言葉や距離感に気をつけながらメッセージなどを送ってくれていた。でも、私のほうにそれを優しさや気遣いとして受け取る余白がなかった。相手が何を思ってそうしてくれるのかわからず、また、わからないからそれに応えられない自分に落ち込んでいた。

久しぶりに池袋でお酒を飲んだ帰り道、その日一緒に飲んでくれていた男性と私の年齢が、ちょうど干支ひと回り違うと知った。12歳下の私と、別に何の利益も生まれないのにこの人は一緒にいてくれたのか。私がそう思ったとき、その人はラブホテル街を避けるように道を変えた。本当に避けたのかどうかはわからない。ただそれがきっかけで、私は私に優しくしてくれる人の姿がいくらかはっきりと見えるようになった。

親や恋人以外の人が私に優しくする理由がわからなかったのだと思う。自分にそんな価値はないとか、何もお返しできないとか、そもそも他者の優しさというものが信用できなかったとか、色々と言葉にしてみようとするけれど、そうするとなんだか零れてしまうものがある気がして、上手くまとまらない。とにかく、理由がわからないからそれが優しさであると認識できなかったという感じ。

でも、たとえ私に価値がなかったとしても、目の前に弱っている人や困っている人がいたら優しくするのだ。そんなことは私もしてきたはずなのに、その感覚をすっかり忘れていた。理由がなくてもなんだかんだと理由をつけて話しかけることもあるし、ご飯を一緒に食べに行くこともある。韓国の「パプモゴッソ?(ご飯食べたの?)」という挨拶にあるような、呼吸をするのと同じ自然さで相手へ心を配る文化がとても好きだったのに、そんな当たり前の人との接し方にずっと思い至れなかった。

してもらったぶん返していかなければと気負うのではなく、息をする合間合間に他者に心を配る優しさを、私も取り戻していきたい。もともと私はそう生きたかったはずではないか。一つ、自分を取り戻せたようで嬉しい。

 

かかっている医師が、「とにかく休んで、暇で暇で仕方なくなって『暇だから仕事でもしてあげるか』と思えたら仕事をしてもいいですよ」と言っていた。暇で暇で仕方なくなるのは難しい。食事や着替えをすれば洗い物は出るし、排水溝に髪の毛が溜まったりトイレが詰まったり、床や棚に埃が見えたりする。読みたい本だって積み重なっていく。それに、私は本当はきっと文章を書きたくて、書きたいな……と思いながらぼんやりと過ごすのは少しつらかった。

やっと生まれてきた余白を、私は人に優しくすること、美味しいものを食べること、そして文章を書くことに使いたい。それから、好きな色に髪を染めにも行けたらいい。10月はそんな風に過ごしてみようかな、と思っている。

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