粥日記

A fehér liliomnak is lehet fekete az árnyéka.

「意味わからん」と人を切り捨てることについて

ちょっと前に、駅で女性とぶつかってしまった人が「女、意味わからんところで立ち止まる」とツイートしていた*1
そのツイートは、「駅でぶつかってくるおじさん」を誤認していたり、「女さん」という蔑称スラングを使っていたりしたために炎上した。(ツイート主は、前者に対して「誤認でした」と弁解したが、蔑称については言及なしだったので、まあそういう人なんだと思う。)

 

 

その炎上を見ていて私は、「他者への想像をしなくても生きていける人がいるのだ」と改めて感じた。

改札を出て立ち止まる人、エスカレーターを降りて立ち止まる人、電車やエレベーターのドアの前で立ち止まっている人、世の中には色んな立ち止まる人がいる。遭遇すると確かに「えっ!?」とは思うが、「意味わからん」ということはない。故意や悪意でやってないぶん、かえって理由は想像できる。

 

例えば、改札を出て立ち止まるのは、
・改札出たもののどっちに行けばいいかわからない
スマホか何かがない! と思って焦った
・改札出たから安心した
・自分のいる場所がわからなくなった
・「あれ? この改札出ていいんだっけ」となった
とか、まあだいたいそんな感じだろうなというくらいなら、立ち止まった人の様子を見ていればなんとなく読み取れる。想像ではあるが。「えっ!? そこで止まらないでくれ!」とは思うけど、意味わからんってことはほぼない。

その他の事例も同じ。私は、「邪魔してやろう」「ぶつかってやろう」と思ってやってる人のほうが意味わからなくて怖い(これも、ある程度の想像は可能だが)。無意識でやっちゃった人の理由は「まあこういうことだろうな」とだいたい想像ができるものだ。


「意味わからん」と切り捨ててしまえるのは、そうやって他者を切り捨てて生きてこられた人なんだなあと思った。
自分には一見理解できない相手への想像をめぐらせることがコミュニケーションや他者理解には必要だ。そのコストを誰かにおっ被せたり、考え方や生活習慣などの違う人を「いないもの」として無視したりして生きている人も、確かにいる。

 

 

8月31日から9月28日まで放送されていたドラマ『サギデカ』NHK総合)は、一貫して「他者への想像力がもたらすもの」を描き続けていた。

最終話で、振り込め詐欺を取り締まる刑事・今宮木村文乃)と、振り込め詐欺を考案した男性・廻谷青木崇高)が、他者(※振り込め詐欺の被害者や、新薬の治験協力者)へ想像力を働かせることについて、こんな会話をする。

 

廻谷「それはね、仕方がないんですよ。ひとりひとりに共感していたら、何もできませんよ。そういうところは、社会的に有益な仕事も、犯罪と少し似ているかもしれない。僕もひとりひとりの顔なんか見ません。だって、神様だって見ていないですからね」
今宮「え?」
廻谷「無作為に外れくじを引かされる人間はいなくならないんです。そういう人たちのこと、いちいち考えても、苦しいだけでしょう。だったらもうひとくくりにして考えた方が建設的なんです。彼らは世の中のための犠牲だ」

 

今宮は、犯罪の被害者、加害者の別なく、他者の背景に思いを馳せ泣いてしまうようなところがある(ドラマでは、そんな今宮の背景についても描かれる)。

一方、廻谷は他者に思いをめぐらすことをやめた人だ。しかし、この会話のあと、今宮の思いに感じ入るような描写がある。「いちいち考えても、苦しいだけでしょう」という実感のこもったセリフからわかるように、廻谷も想像ができない人ではない。ただ苦しくて、自分を守るために対象を絞ってしまったのだろう。

ドラマは、そんな彼のしてきたことを詳らかにしつつも、彼の考え方を真っ向から否定することはない。彼が「そうなってしまった」背景への想像力を持っているからだ。

 

 

「意味わからん」と他者を切り捨てることは、本当に楽だ。つらいとき、もう無理なとき、私もあまり人から見えないところでそう言ってしまう場合があった。

でも、駅の改札を出て立ち止まってしまう女への想像力を放棄した人も、生きていく中で、誰かが向けてくれている想像力に守られている部分があるだろう。私自身も、あとになって周囲の気遣いに気づいて恥じ入ることも多い。

だから、切り捨てる人よりは、苦しくても想像できる人でいたいなあと私は思う。それで何か解決するかといえば、しないほうがきっと多いのだけど。でも、人が生きている世界は、想像することでしか良い方向には変わっていかないと思うので。