粥日記

A fehér liliomnak is lehet fekete az árnyéka.

夜道が怖いと感じられるようになった

書かないと書けなくなるような気がして、2018年10月にやったように、また毎日ブログを書くのをやろうかなあと考えている。
前はあまりそんな風に感じなかったのに、不思議な感覚だ。

 

モラハラ男性と別れて1年以上が経ち、変わったことは「夜道が怖くなった」。
彼と交際や同居していた頃は、帰りが終電になろうが夜中の3時になろうが平気でプラプラと歩いて帰っていたのに、いまは夜がとても怖い。
0時前後になると、明るめの道でも「ちょっと怖いな」と思うようになった。怖い、という自分の気持ちに気付いたときにはとても驚いた。

 

恐怖を感じるようになったのは守ってくれる人がいなくなったからとかそういうことではない。
一つは、最近怖い事件のニュースが大きく世間に流れることが原因だろう。もう一つ大きい理由は、以前より自分を大切に思えるようになったからだと感じている。大切な人間が夜道を歩いて帰ってくるとなったら、心配になるのは当たり前だ。

 

モラ太郎と一緒にいたときは、自分を大切にするとはどういうことか、自分を大切だと思う感覚とはどういうものなのか、全然わからなかった。モラ太郎や彼の周りの人間が、常に「お前は大切な人間ではない」という刷り込みを(彼が意識するしないに関わらず)私にしてきたからだ。


自分が大切じゃないのでどうなってもよく、危ない場所にも危ない人間にもどんどん近づいた。
いまになって自分を地続きの存在として振り返れば「他の人がしていないような経験ができた。死ななくてラッキーだった」くらいのことは思える。けれど、当時の若く危なっかしい私をいまの私が解離的に見ると、かわいそうに、とも思う。

 

そういえば、以前と比べると、私を大切にしない人に執着することが少しずつ減ってきた気がする。
たとえば、一方的に無視されたり馬鹿にされたりしても「どうして?」「ごめんね」と食い下がらなくなった。私が「どうして?」「ごめんね」と萎縮し媚びると、彼らは存分に私にイラつくことができ、安心したり嬉しかったりするのだろう。そういうことは、してあげる必要がないなあと考えられるようになった。
馬鹿にされれば嫌な気分にはなるが、そのできごとは自分の評価ではなく相手への評価として反映されるようになった。

 

ただ、まだ完全には自分を大切にできていない。「あなたがとても大切。大切にしたい」と言ってくれる人を、素直に信じることができない。
兆候はあったとはいえ、モラ太郎も最初からモラハラ男性だったというわけではなかった。変化を目の当たりにしてまた怖い目に遭いたくない、という防衛の気持ちが勝っている状況なのだ。
他人に大切にされたり友達と楽しく過ごしたりする時間が増えていけば、それも徐々に薄れていくのではないかと想像できる。前は、そんな想像すらできなかった。やっぱり、私はちゃんと良くなっているようだ。

 

「自分が悪いのではないか」と思って沈黙していたことも、これからは人に話していくことにする。悪口や笑い話としてではなく、単純な事実として。
モラ太郎に「お前が悪い」と言われ「私が悪いのかもしれない」と思い悩んで自罰的に生きてきた。けれど、もう呪いは解けるから。私がモラ太郎や彼に関係がある人の名誉のために隠していた証拠も、必要があれば人に見せることにしようと思っている。

私は、自分を大切にできるようになりつつある。