粥日記

A fehér liliomnak is lehet fekete az árnyéka.

射精欲は愛じゃない。

風が強くなってきた。近くの家の物置ががたつく音や、隙間からねじ込まれてくる空気の圧が怖くて、慌てて窓を閉める。

 

初めてGoogleドキュメントの音声入力でテープ起こしをしたら、思った以上に楽でたまげた。これまで、余程のことがない限りは人に頼まず自分で手入力していたのだ。

なんか、それが修行みたいなものだと思っていた。それに、先輩ライターさんたちのように、私も「テープ起こしが好き」って言えるようになりたかった。楽しいと思うときはあるけど、2年間続けても結局、好きだと思えることはなかった。楽しさと好きかどうかは別問題だ。

 

好きといえば、Twitterで性やエロ(や異性など)の話をしている人を見ていると、セックスやエロを「好き」な人って、それについて話している人の多さの割には本当に少ないんだなあと感じる。「興奮や快感」と「好きとか愛」をグチグチに癒着させて分別できてない人が多いと思う。

興奮とか快感って中毒になりやすいもので、繰り返しほしくなる。その繰り返しほしさの理由を、自分が中毒めいたものに支配されていると気づかずに「好きだから」と錯覚している。

煙草とか麻薬とか酒とかも、元々それ自体を好きなわけではないのに、欲してしまう衝動を「好き」と言ってしまっている人がいるじゃないですか。セックスやエロでも、そうなってしまっている人がいるんだろうね。射精欲は愛じゃない。

 

自分がなぜセックスやエロを好きか深く考えてなくて(そもそも「好き」ではないし)話せない人が多くて、対話にならない話がTwitterにはたくさん落ちてる。

エロいことを言えばちょっと変わった自分が演出できると思ってる女の子や、どれだけ酷い女こどもへの性的虐待行為をツイートできるかチキンレースしてる男たちは、自分が好きなのはエロやセックスや興奮の対象ではないという可能性にいつ気がつくんだろう。

 

「好き」についてずっとずっと考えていると、私なんか何も好きではないんじゃないかと、ふと愕然とする瞬間が来る。それでも諦めず、自分を見捨てず、自分の心の深海に潜っていく。何も掴めず、息継ぎのために落胆とともに浮上しなければいけないときもある。

潜り、浮上し、潜り、浮上し、ときには私を気にかけてくれる人の力を借りながら、私は自分の好きを確信に変えていく。対象のことを思い、考え、呼吸を犠牲に「あともう少しだけ」と手を伸ばすことを積み重ねた先に、愛があると信じている。

 

 

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