粥日記

A fehér liliomnak is lehet fekete az árnyéka.

優しく侵食するお粥

ここ最近の気温の変化に負けて、風邪をひいてしまった。
熱はなく、食欲はあり。毎年恒例の鼻風邪のようだ。毎日鼻が詰まっていて、鼻声が恥ずかしい。ただでさえ、声や話し方に自信がないのに。

 

たぶん何でも食べられるのだけど、気が弱ってしまって優しいものを食べたくなった。
そこで、以前購入した野崎洋光の『からだが喜ぶおかゆ料理帖』(PHP研究所)を出してきて、毎日お粥を炊いている。白がゆ、豆乳がゆ、味噌がゆ、めかぶがゆ、豆腐がゆ、トマトがゆ、干し桜えびがゆ……、お粥のレパートリーがどんどん増える。

からだが喜ぶおかゆ料理帖

からだが喜ぶおかゆ料理帖

 

 

お米にゆっくりと給水させるところからつくったお粥。お米の一粒一粒が、自分では抱えきれないほどの水分を含んではじけ、とろとろとお湯や隣の米粒、他の食材や調味料との境界を曖昧にしていく。
その曖昧さが嫌いだという人も過去にはいたけれど、私はそうやって混じり合っていくものも愛おしく羨ましい。調理は、鍋を火にかけて最初に少しあくを取ったら放っておけばいいだけ。なのに、つい延々と、湯や米粒同士が互いに浸食し合う過程を見つめてしまう。


曖昧な食べ物であるお粥。喉を通って胃の中に入るまでのその間に、もう自分の身体に吸収され始めているような感覚がある。いろいろな食材や調味料を受け入れて溶け合うその寛容さで、私の身体とも混ざり合おうとしてくれているように。だから、お粥は優しいと感じるのだ。

 

 

おかゆ料理帖』には、「季節のおかゆ」という章がある。秋は、表紙の写真にもある月見がゆとかぼちゃがゆ、それに、きのこがゆや銀杏がゆなども美味しそう。
お粥の優しさを知ってしまった私は、体の不調の日だけでなく、心細く寂しい日にもお粥炊きに頼り甘えることにしてしまいそうだ。