粥日記

A fehér liliomnak is lehet fekete az árnyéka.

おばあちゃんのところに行きたい

おばあちゃん、私もおばあちゃんのところに行きたい。

 

私はつらいことがあったとき、あとになってよく「おばあちゃんが、自分がつらかったことをわかってほしいと思ってるんじゃないかな」と感じる。

「おばあちゃんはみんなのこと見守ってる」って親戚の人たちは言うけど、本当にそうなのかな。
私は、おばあちゃんはつらかったことをわかってもらえなくて、さみしかったというか……なんか上手く言えないけれど。おばあちゃん自身も、「わかってほしい」とか「さみしい」とか「悔しい」とか、自分の思いを言葉にできてなくて、それで何か思いの塊みたいなものをとにかく私に託そうとしているって、私はときどき感じます。

私がフェミニズムに近い場所にいることも、何かを言葉にするのを続けていることも、私じゃなくておばあちゃんがそうさせてくれている気がする。おばあちゃんの感じていたことを言葉にしてあげられなくて、助けてあげられなくて、ごめんねと思う必要はないと思うんだけど、ごめんねと思います。

 

おばあちゃんとの何か具体的な思い出を思い出さなくても、心の中で「おばあちゃん」と思うとすごく涙が出るのはなんでだろう。どうしようもないドライアイなのが嘘みたいに、延々と涙が出ます。

私がしなければならないことは、何なんだろう。
いまだったら、こどもの頃よりはおばあちゃんの気持ちをわかってあげたりできるんじゃないかな。おばあちゃんが、私を良い学校に入れてくれたおかげです。フェミニズムのことも少しは勉強したし、私もつらいことがあったから、おばあちゃんは悪くないって自信持って言える。おばあちゃんは、何にも悪くなかった。おばあちゃんを守ってあげたかった。

 

だから、もし必要なら、私をおばあちゃんのところに連れて行ってほしい。
おばあちゃんのところに行きたい。そのために、全部があった気がする。

おばあちゃん、週末になったら会えるね。何を話すか、考えておきます。