粥日記

A fehér liliomnak is lehet fekete az árnyéka.

幸せを諦めるタイミング

昨日、「幸せを感じるのが苦手だ」ということに悩んでブログを書いた(人間の消費と嘘つきの尊重 - 静かなお粥のほとりから)。
美味しいとか、嬉しい、楽しいとか、そういう瞬間的な幸せ(たぶん)はキャッチできるけれど、愛されているとか、大切にされているとか、心が満たされているとか、そういう継続的な幸せが全然感知できない。私を大切に思ってくれているのに暖簾を押すような気持ちで接してくれている人がいると思うと、ありがたくも申し訳ない。

私は、もしかしたらこの先も、一生瞬間的な幸せしか知ることができないのかもしれないと考え始めていた。だからきっと、たとえば結婚なんて向いていない。誰かと一緒に幸せになることは叶わない。それを受け入れて生きていくやり方を探すほうに方向転換したほうが、良いのかもしれない。そうしよう。悲しい思いも少なくなるはずだ。

 

それが、昨日のこと。今日、たまたま戸田真琴さんのnoteを読んだ。

人生において、幸福というのは一瞬だけ胸を暖めてから爆発して消えてしまう幻のようなものだったから、もうそういうものなのだと疑う気もなく思い知ってしまっていたから、触っても弾けて消えていくわけじゃない幸福というものがあるということを、今でもたまに不思議に思う。

10/16。白いゆめ|戸田真琴|note

戸田さんはだいぶ年下の女性。戸田さんもまた、自分が感知できる幸せというものは瞬間的なものでしかないと確信していた。でも、若くして継続的な幸せの存在に気づくことができている。疑いながら、迷いながら。

こういう文章に、私はまた迷う。なんでこのタイミングで、継続的な幸せを人生から切り離して生きていこうと舵を切りそうになったタイミングで、こういう文章や女性に出会ってしまうんだろう。私も、それに触れられるときが来るんだろうか。来ない気がする。怖い。もう諦めたい。でも。

 

昔から、友達の言う「幸せになりたい」という言葉の意図がわからなかった。今でもやっぱり、幸せになりたいとは思えない。よくわからないから。ただ、自分が知らないものを知ってみたいと思う。人間について私の知らない部分を実地で知っていくことのなかに、そういうものを含んでも良いのかな。

馬鹿にされるかもしれない。また、誰かに止められるかもしれない。でも、同じように継続的な幸せはないと信じていた戸田さんが触れることができたなら、もしかしたら私にもいつかそのときが訪れるかもしれない。訪れないかもしれない。訪れなかったら、またそのときに諦めれば良いか。

「好きです」とメッセージを送ったら「僕も」と返ってきた。嘘だ、合わせてくれているだけだ、と思う。悲しくなるから信じたくない。けど、少しの逡巡ののち、私は未来に繋がる言葉を送っていた。

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私はどうしようもない人間で、いつも、愛しているとか愛していないとか、愛されていないとか愛されているとか、永遠に側にいるとか一度も触れ合わないとか、そういう極端な事柄にばかり囚われていた。そういうことを心の中で問い詰めていたら、お別れしか呼ばないのも当たり前だった。

10/16。白いゆめ|戸田真琴|note

この部分を書いている戸田さんの姿を想像した。とっても好きだなと思った。