粥日記

A fehér liliomnak is lehet fekete az árnyéka.

スーパーマーケットの恋人たち

あー、やってしまった。

土日の夕方のスーパーマーケット。夕飯の準備のために買い物に来ている女性たちについて、その夫や恋人と思われる男性たちが来ている。
これまでに住んだ東京のどの地域のスーパーでも遭遇した、混み合うスーパーでの振る舞いに慣れていない男性たち。彼らは、自分がぼんやりと通路を塞いでいても気付かないし、かご同士がぶつかっても謝ってくれることが少ない。ふらりといなくなった夫や恋人を気にして、女性の軌道も乱れる。淡々と必要なものを買って帰りたいのに、余計な気遣いが発生してうっすらと疲れる。

だから、休日の夕方にスーパーに行くことは避けていたのに。きっと、夫婦やカップルでスーパーに行くことは幸せな時間の一つだと思う。忙しい平日にはできないコミュニケーションだと思うし、それに対して「連れてくんな」とは私は思わない。今日、ここに来てしまった自分のうっかりさを反省しながら、購入したトマトジュースや鶏ささみなどを袋に入れ、そそくさとスーパーをあとにした。

 

帰り道、昔の恋人に「きみのスーパーでの振る舞いが好きだ」と言われたことを思い出した。まだ学生の頃のことだ。彼の住むアパートで献立について話し、そのあと少し歩いたところにある西友に2人でよく行った。

彼が言うには、これまでの恋人たちは、スーパーなど買い物のときは常に彼のそばに寄り添っていたそうだ。別なコーナーに行くときも「次はあっちに行こう」と彼を誘導したり、許可を求めたりする。はぐれないためになのか、必ず一緒にいるものという思い込みがあるためなのか、勝手に彼のそばを離れた人はいなかった。

私は、たとえば買うものが「肉、卵、牛乳」と決まっていれば、彼が肉のコーナーを見ている間に1人でフラッと卵を取りに行ってしまうのだという。自分では全然自覚がない。何も言わずスッといなくなっては、必要なものやほしいものを手に持って必ず彼のもとに戻ってくる。彼はいなくなった私を見つけられないのに、私は一度見失っても彼をすぐに見つけ出せた。
最初は驚いて心配したらしいけれど、それを注意したり叱ったりすることなく様子を見て徐々に慣れてくれた。自由にいなくなっては何かを持って戻ってくる私の姿が、獲物やぬいぐるみを捕まえては「えらい?」「褒めて」と帰ってくる小さい動物のように可愛く見えてきたということらしかった。彼の周りで思うまま自由にしている私を、良いと感じてくれた。

 

私のような行動が一般的なのか、少数派なのかわからない。確認する意味もないし、説明もしづらくてそのままにしている。

彼は、私が自分を良く見せようとしているときではなく、私の無意識の行動をよく見てたくさん気づき、たくさん愛おしんでくれた人だった。私の長所ではないと思うけれど、彼にとっては可愛らしいと感じる点をときどき教えてくれた。そういうとき、「きみに良いところがあるのは当たり前だ」とでもいうような平常の態度でいてくれたことが、とても好ましかった。

 

土日の夕方、連れ立ってスーパーに買い物に来ている夫婦やカップルも、買い物している相手の姿を愛おしく思ったりしているのだろうか。家に帰って「きみのこういうところが好きだよ」と、話しているだろうか。
そんな人ばかりではない気がするけれど、でも、もしかしたら昔の私のような尊い時間を過ごしている人たちがいるのかもしれない。そう考えると、やっぱり私のような邪魔者は、休日の夕方にスーパーに行ってしまうことは控えようと思った。