粥日記

A fehér liliomnak is lehet fekete az árnyéka.

免罪符としての「メンヘラ」、罵倒語としての「メンヘラ」

ある女の子に「メンヘラ」と罵られたことがあった。その子を“Nちゃん”とする。

幸い、私は「メンヘラ」という言葉やメンヘラの人をそんなに悪いものと認識していなかったので「この子は『メンヘラ』と言えば他者を貶められると認識している子なんだなあ」と理解しただけで終わった。

 

一方でNちゃんは、仲の良い仲間内や自分の好きな人の前では、自分のことを「メンヘラ」と言う。

「私ってえ、メンヘラでえ、女の子が好きでえ、エロい話もできてえ、ちょっと変わった女なんですう~」という、言ってしまえばよくある雑ブランディングをする子だった。

 

10年近くTwitterに張り付いていると、こうしたブランディングをしていた若い女性ツイッタラーが、全然変わったところのない普通の主婦、普通の母親ポジションに落ち着いたり、丁寧な暮らし方面に舵を切ったり、雑なブランディングに疲弊してTwitterからいなくなってしまったりするのを見ることが何度かある(丁寧な暮らし方面に行った人は、変わった女ブランディングより成功する場合があり、すごい)。

Nちゃんも、2~3年前に比べると徐々に落ち着いてきている。無敵感のある学生から社会人になったという環境の変化も影響しているのかもしれない。じきに、自分で雑に設定した「ちょっと変わった私」がめんどくさくなって、降りてしまうことだろう。もちろんそれ自体は悪いこととは思わない。

 

他人を貶めたのと同じ言葉で自分を飾る。遭遇したときは、どういう心の動きなのかよくわからなかった。

考えてみて、そうする理由のひとつは、(「メンヘラ」を侮蔑語と置いた場合)自称することで免罪符としたいからではないかと思った。

 

「私ってえ、メンヘラだからあ」と周知して自分を数段落としておくことで、不特定多数の相手とのセックスや不貞・違法行為への関与、他者への心無い暴言、口や素行の悪さ、ネガティブな感情をまき散らすことなどなどを、周りに許容してもらおうという考え。

自分の元来の性質に基づく倫理的でない面を、「メンヘラ」という後天的属性(と彼女らは思っている)によって「仕方ないね」と受け入れてもらおうとしている。自分の倫理に欠けた性質を、ありのままに受け入れられない(また、ありのままに周囲に見せられない)ということなのかもしれない。

 

もちろん本人がそこまで熟考し論理立ててやっているわけではなく、生きていく中で身に着けた生存の知恵みたいなものだと思う。

だから、そこにいまメンヘラとして生き抜いている人への理解や歩み寄りはない。Nちゃんのような子が言う「メンヘラ」は、ネットスラングとしてのものでしかない。言葉を広く深く理解しようとすれば、自分がしてきた無神経な言動と向き合わなければいけなくなる。彼女たちの多くは、そこまでやる人間ではない。

 

彼女たちが「メンヘラ」をネットスラングとしての範囲(その中でも特に上澄み)でしか把握していないのであれば、自己免罪・ブランディングと並行して他者への罵倒に利用することも、なんとなく理解できる気がしてくる。

 

Nちゃんが使った「メンヘラ」という言葉は、彼女の覚悟と思い切りのなさを隠すための「私はガチじゃないんでw」という粗末な布だ。ファッションメンヘラ未満である。
自分にとってまったく切実でない言葉だからこそ、無遠慮に他人に投げつけるなど粗末に扱うことができる。

 

メンヘラについてこれまたネットスラング的にしか理解していない周囲の人間は、「メンヘラ」という粗末な布を被る彼女らを見て「悩みを抱えている優しい子」と曖昧に勘違いしたりする。
まあ、人間誰しも多面的でありそういう側面がないとは言わない。しかし、私は考えてしまう。

 

生活に困難が生じるほどの疾患を抱えている人から、Nちゃんのような人までを内包してしまっている「メンヘラ」という言葉。その言葉の取り扱いの難しさについて思い至らず、困難を抱える人の立場よりも自分の免罪を優先する姿勢。

そんな彼女を、私は「優しい人」とは思えない。