粥日記

A fehér liliomnak is lehet fekete az árnyéka.

人間の消費と嘘つきの尊重

こないだの暑かった日に、初めて流行りの大きいかき氷を食べた。
タピオカ黒糖ミルク氷、想像以上においしくて変なテンションになってしまった。一緒に食べに行ってくれた後輩に、いっぱい話しかけてしまった。私なりの変なテンション。そうは言ってもかき氷でしょ、なんて侮っててすみません。

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好きな人がいるのに「別にその人と付き合わなくてもいいや」と思ってる自分は、その人を消費しているなあと感じる。
付き合わない。告白しない。それは、その人と向き合わないということだ。頭の中で、その人の言動や仕草を勝手にカスタマイズして、良いなあ素敵だなあと思ったりしている。生きている人なのに、その人の人格や考えを軽視しているなあ、と後暗い気持ちになる。

相手と向き合わないというのはめちゃくちゃ楽で、いわばサボりだ。怠惰。私はその人の人格や考えをあまり見ないようにして、自分がときめいた数カ所を誇張したり引き延ばしたり反芻したりして楽しんでいるだけ。どこかで向き合うことをしないなら、その人の人格と私の妄想が乖離したのちにあまり良くないことが起きる。

 

でも、その人の人格を認知して尊重するとはどういうことだろう、とも思う。意識しなければできている気もするけれど、意識するとかえってどういう手順かわからなくなる。

相手を尊重するとは、たとえば相手の話を聴くこと、考えを受け入れること、良いところを認めること、礼儀を持って接すること。でももし、相手が最初から嘘をついていたら。その場合は、私は「その人が嘘をつきたいと思ったこと。あるいは、嘘をつかなければいけない理由があること」を受け入れれば良いのだろうか。離れなければいけないのだろうか。その人が、私を尊重していないから? それとも、私を尊重するために?

 

わからない。わからないから知りたいと思う。それも、実地で知りたいと思う。
人間のわからない部分に実地で触れたいと思うのは、おそらく幸せな生き方ではない。友だちは、もうそんなことを考えるのはやめて幸せになって、と言う。私もいつか、もうやめたい、幸せになりたい、と泣き言を言うのかもしれない。いまだって、考えるのなんかしんどいと思う。ただ、考えなくなるほうが怖い。
でも、幸せを感じるのが苦手な私に課せられたのは、そういう仕事なのかもしれないとも思う。どうせ幸せかどうかわからないのなら、実地で生きていくのも良いのかもしれない。いまはまだ。